小泉首相の訪朝と課題について☆☆☆☆☆

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戦犯合祀は第二の統帥権侵害④

投稿者: shinzerosen 投稿日時: 2005/06/11 19:43 投稿番号: [206156 / 232612]
  この皇国思想にとって天敵となったのは、東京帝大名誉教授・貴族院議員である美濃部達吉らが唱えた「天皇機関説」です。天皇機関説は「統治権は法人である国家に属し、天皇はその最高機関として統治権を行使する」「国勢に対する批判の自由や行政権・司法権も法律にもとづく法治主義によっておこなうべし」というリベラルな、立憲君主制度の基礎になる考え方です。昭和10年2月の貴族院本会議において美濃部は、「緩慢なる謀反であり、明らかなる反逆になる」として「学匪」と非難されます。

  この天皇機関説について、天皇陛下は一連の排撃運動をやりすぎと強く憂慮されていました。侍従武官長であった本庄繁陸軍大将の「本庄日記・至秘鈔」によれば、「軍部にて機関説を排撃しつつ、しかもかくの如き自分の意志に悖る事を勝手に為すは、即ち朕を機関説扱と為すものにあらざるなきや」と排斥運動を痛烈に批判されています。

  ここでもっとも巧妙に権力を把握したのは東条ら「統制派」と呼ばれ、「皇道派」と対立した陸軍首脳部の大勢です。統制派は、結局、皇道派の過激なテロリズムとクーデターの恐怖を利用しながら、一方天皇機関説も不敬として否定し、その両方の否定の中空に、自らの統制権を浸潤させる戦略に成功しました。この昔の民話でいうと泣いた赤鬼(皇道派)と、青鬼(統制派)の結託を成立させることが、平泉の役割となりました。



  1978年松平は宮司預かりとなっていたA級戦犯合祀を行うことを決意し、合祀者名簿を天皇のもとへ持って行きます。それを受け取った徳川侍従次長は、天皇の意向に基づき「相当の憂慮」を表明しました。特におかしいと思われたのは病気でなくなった、永野修身、松岡洋右らの合祀です。しかし松平はそれを無視し、独断で合祀を強行してしまいました。徳川らの側近たちの不満は天皇の意を汲んでなされたことは、間違いありません。    「昭和天皇独白録」は戦時指導者に関する辛口評で読者を驚かせましたが、なかでも松岡については「恐らくはヒトラーにでも買収されたのではないか」とまで酷評を加えています。そもそも松岡は戦死ではなく裁判中に病死した人間ですが、これまで退官後の病死者が合祀されることはありませんでした。恣意もここにきわまれりということだと思います。
  合祀にかんする「ご内意」を伝えられても、松平はA級合祀を強行します。平泉史観の面目躍如です。この強行は高価な代償を神社にもたらしました。強い違和感、不快感をもたれた昭和天皇はその後、靖国神社にいかないことを決めました。1975年11月を最後に中断、今日まで30年間、天皇による参拝は再開されませんでした。1976年の8月15日に昭和天皇はその思いを「このとしの   この日にもまた   靖国の   みやしろのこと   うれひはふかし」とお詠みになりました。A級戦犯が合祀されるかぎり、天皇陛下が靖国神社をたずねないという不幸な伝統は、今も、これからも永遠に続くことでしょう。
 

 
  こうして自らの傲慢な過ちにより創建の正統性を完全に失ったことに困った靖国神社は、首相による公式参拝を行ってその過ちを糊塗するため、日本遺族会などを通じて活発な運動を進めました。
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