戦犯合祀は第二の統帥権侵害③
投稿者: shinzerosen 投稿日時: 2005/06/11 19:41 投稿番号: [206155 / 232612]
5.A級戦犯合祀をすすめた「靖国」イデオロギー
こうして国と靖国神社の共謀により、着実に戦犯の合祀が進んできたのですが、歴史学者の秦郁彦は、これには「厚生省引揚援護局」の旧軍人グループと、靖国神社宮司松平永芳の役割が大きかった、と主張しています。
「引揚援護局」は形式上は厚生省の一部局でしたが、局長のみがキャリアで入れ替わり、実質面を旧軍人グループ、しかも東京裁判史観否定派のイデオロギーを代弁する勢力に牛耳られている部署でした。中心となったのは、戦後20年間にわたり課長、局次長を歴任した美山要蔵元陸軍大佐、板垣徹元中佐、大野克一元中佐らで、部下には元将校、下士官、戦争未亡人が集まり、省内でも別格の職場でした。美山元大佐は東条英機首相兼陸相の直系といわれ、かつて靖国を所管した陸軍省の副官でした。つまり、東京裁判を否定する旧陸軍出身者のイデオローグの一人でした。彼らは1959年のBC級戦犯の合祀がすんなりと通ってしまったことに味を占め、A級戦犯も、と意気込みました。
注目すべきなのはこの中の「合祀基準」です。これは、戦前では陸軍が、戦後は靖国神社が審査し、天皇に裁可を貰い決定に至る、という形を取ってきました。本来靖国神社のなりたちからいって、合祀の基準をかえるためには、天皇の了解を取り付けなければならなかったのです。しかし戦後、その了解は限りなくあいまいになります。
1966年引揚援護局はA級戦犯の「祭神票」を靖国神社に送り付けました。しかしこの当時の宮司筑波藤麿は、山科宮家から臣籍降下した元皇族であり、東大国史学科に学び欧米にも留学した広い視野を持つ歴史家でした。筑波は、これまでの経緯と天皇家や宮内庁内の空気を熟知していたので、それに配慮し、合祀を差し止めていました。筑波宮司に対して強い介入を行っていたのが、宮司の選出権をもつ合祀諮問機関の「靖国崇敬者総代会」です。総代は10人でしたが、青木一男元大東亜相、賀屋興宣元蔵相などの、東条内閣の閣僚で、3−10年の拘置ないし服役の後釈放されたA級戦犯が加わっていました。
青木氏は、「合祀しないと東京裁判の結果を認めることになる」「戦争責任者として合祀しないとなると神社の社会的責任は重いぞ」と迫りました。事態が急変したのは、その筑波宮司が急逝し、後任の宮司に東京裁判否定派の松平永芳が就いてからのことです。
この松平永芳は幕末の福井藩主、松平春獄の孫にあたる軍人でした。彼の強烈な天皇観は、平泉澄東大教授からの影響が大きいといわれています。それは単なる天皇崇拝ではなく「現天皇が天皇制本来の伝統にてらし過ちを犯したと判断されるべきときには、死をもって諫言すべきだ」という思想でした。
略
平泉は昭和23年に公職追放の対象となった後は、泉寺白山神社の宮司となり、歴史の研究・著述と後進の指導に専念する傍ら、銀座に研究室を開設し昭和59年に没するまで右派の国史学者・イデオローグとして影響力を持ち続けました。断っておきますが、これほどの影響力を持ちえたということは、彼の思想は別として、知性、信念、人格、清新さ、教養など格別な人物だったということです。彼は皇道派、統制派などとかく分裂しがちな日本の右翼思想のバランスをとる思想的なシンボルであり、また戦時中は従軍司祭としての役割を果たしました。同門の人々の多くは戦後、保安隊、自衛隊、警察、、国史家、神道などに従事し、思想的な共同体を保ってきました。
しかしその皇国思想について批判をすれば、自家撞着的であり、外の社会に対して閉じられた価値観を追求し、正統の核をもたず、つねにあいまいで宗教的・政治的な色彩を持ちます。天皇を守り立てるように装いつつ、テロを辞さず、天皇をも制御できる政治権力をわが身にまとおうという隠された思想的権力欲が、背景にあると思います。つまり、天皇主権説によって国体をたてに「国家機構内部における軍や官僚的要素の絶対的地位を確保しよう」とする心理です。
こうして国と靖国神社の共謀により、着実に戦犯の合祀が進んできたのですが、歴史学者の秦郁彦は、これには「厚生省引揚援護局」の旧軍人グループと、靖国神社宮司松平永芳の役割が大きかった、と主張しています。
「引揚援護局」は形式上は厚生省の一部局でしたが、局長のみがキャリアで入れ替わり、実質面を旧軍人グループ、しかも東京裁判史観否定派のイデオロギーを代弁する勢力に牛耳られている部署でした。中心となったのは、戦後20年間にわたり課長、局次長を歴任した美山要蔵元陸軍大佐、板垣徹元中佐、大野克一元中佐らで、部下には元将校、下士官、戦争未亡人が集まり、省内でも別格の職場でした。美山元大佐は東条英機首相兼陸相の直系といわれ、かつて靖国を所管した陸軍省の副官でした。つまり、東京裁判を否定する旧陸軍出身者のイデオローグの一人でした。彼らは1959年のBC級戦犯の合祀がすんなりと通ってしまったことに味を占め、A級戦犯も、と意気込みました。
注目すべきなのはこの中の「合祀基準」です。これは、戦前では陸軍が、戦後は靖国神社が審査し、天皇に裁可を貰い決定に至る、という形を取ってきました。本来靖国神社のなりたちからいって、合祀の基準をかえるためには、天皇の了解を取り付けなければならなかったのです。しかし戦後、その了解は限りなくあいまいになります。
1966年引揚援護局はA級戦犯の「祭神票」を靖国神社に送り付けました。しかしこの当時の宮司筑波藤麿は、山科宮家から臣籍降下した元皇族であり、東大国史学科に学び欧米にも留学した広い視野を持つ歴史家でした。筑波は、これまでの経緯と天皇家や宮内庁内の空気を熟知していたので、それに配慮し、合祀を差し止めていました。筑波宮司に対して強い介入を行っていたのが、宮司の選出権をもつ合祀諮問機関の「靖国崇敬者総代会」です。総代は10人でしたが、青木一男元大東亜相、賀屋興宣元蔵相などの、東条内閣の閣僚で、3−10年の拘置ないし服役の後釈放されたA級戦犯が加わっていました。
青木氏は、「合祀しないと東京裁判の結果を認めることになる」「戦争責任者として合祀しないとなると神社の社会的責任は重いぞ」と迫りました。事態が急変したのは、その筑波宮司が急逝し、後任の宮司に東京裁判否定派の松平永芳が就いてからのことです。
この松平永芳は幕末の福井藩主、松平春獄の孫にあたる軍人でした。彼の強烈な天皇観は、平泉澄東大教授からの影響が大きいといわれています。それは単なる天皇崇拝ではなく「現天皇が天皇制本来の伝統にてらし過ちを犯したと判断されるべきときには、死をもって諫言すべきだ」という思想でした。
略
平泉は昭和23年に公職追放の対象となった後は、泉寺白山神社の宮司となり、歴史の研究・著述と後進の指導に専念する傍ら、銀座に研究室を開設し昭和59年に没するまで右派の国史学者・イデオローグとして影響力を持ち続けました。断っておきますが、これほどの影響力を持ちえたということは、彼の思想は別として、知性、信念、人格、清新さ、教養など格別な人物だったということです。彼は皇道派、統制派などとかく分裂しがちな日本の右翼思想のバランスをとる思想的なシンボルであり、また戦時中は従軍司祭としての役割を果たしました。同門の人々の多くは戦後、保安隊、自衛隊、警察、、国史家、神道などに従事し、思想的な共同体を保ってきました。
しかしその皇国思想について批判をすれば、自家撞着的であり、外の社会に対して閉じられた価値観を追求し、正統の核をもたず、つねにあいまいで宗教的・政治的な色彩を持ちます。天皇を守り立てるように装いつつ、テロを辞さず、天皇をも制御できる政治権力をわが身にまとおうという隠された思想的権力欲が、背景にあると思います。つまり、天皇主権説によって国体をたてに「国家機構内部における軍や官僚的要素の絶対的地位を確保しよう」とする心理です。
これは メッセージ 206153 (shinzerosen さん)への返信です.