94年の日本③
投稿者: komash0427 投稿日時: 2005/03/21 08:13 投稿番号: [194002 / 232612]
対
立
の
激
化
対立の激化という破滅的自体の可能性は、北朝鮮をよく知る人々に大きな驚きを与えた。米政府当局者でさえ、制裁によって北朝鮮が方針を転換するとは思えないと認めていた。もともと孤立した北朝鮮は外部からの圧力に割合強かった。対外貿易もほとんどなく、これといった国際的つながりもまるでなかったからである。それどころか、当局者の誇り高い発言や、おなじみの脅迫行為から見て、北朝鮮は降伏するくらいなら本気で戦うように思えた。
それまでも指摘されていたのに、実際ぽっかりと欠落していたこと、それは、米政府と、その決定が北朝鮮での法律に等しい人物との直接対話だった。93年初めに、クリントン政権の初代国防長官レス・アスピンは、金日成に核問題について直接訴えかける施設を派遣するよう提案した。しかし、それは危険すぎるとして却下された。アスピンの後継者ペリー国防長官の下でも、国防総省は金日成との直接接触を引き続き試みた。だが、国務省は当時、高級レベル対話を善行に対する褒美のように考えており、北朝鮮が各種の合意や行動なりで誠意を見せない限り、こうした対話は許可されるべきではないとしていた。
しかし、1994年5月下旬に燃料奉公間問題がさらに紛糾し、驚くべき戦争計画を国防総省が提出すると、クリントンはペリー長官とジム・レイニ―駐韓大使の助言を受けて、サム・ナン、リチャード・ルーガ―の両上院議員に、平壌に行き金日成と会うように要請した。北朝鮮はにわか仕立てのこの訪朝を最後の土壇場で拒否する。金日成のスケジュールが調整できなかったと思われる。
――1994年6月上旬――
クリントンが制裁実施に傾いていた頃、ジミー・カーター元大統領が朝鮮の舞台に足を踏み入れる。再び歴史的役割を果たそうとしたのである。中東和平交渉を仲介し、キャンプデービッド合意をもたらしながら、80年の大統領選で再選に失敗したカーターは、その後アトランタのカーター・センターを拠点にして、世界中の紛争を平和裏に解決すべく活動を展開していた。69歳になるカーターは、中東やエチオピア、スーダン、ソマリア、旧ユーゴスラビアなどでエネルギッシュに調停役を果たしてきた。
カーターは91年から93年まで毎年、金日成から平壌を訪れるよう招請されていたが、その都度、国務省は断るよう求めた。訪朝は朝鮮問題を複雑にするだけで、解決には役立たないというのである。韓国政府は、カーターが在任時代に在韓米軍撤退を画策したのを根に持っており、カーターがまたも朝鮮問題に関わることに反対した。
制裁論議が進む中、カーターは募る懸念を表明するため、クリントンに電話をかけた。6月5日に自宅のあるジョージア州ブレーンズにロバート・ガルーチがやってきて、状況説明を聞かされたが、カーターはがっかりする。米政府は金日成と直接接触するつもりがないと知ったからだ。カーターはすぐにクリントンに書簡を送り、差し迫った危機に鑑み自分は平壌に向かうことを決意したと伝えた。クリントンは、ゴア副大統領の助言もあり、カーターが正式な米政府特使ではなく一民間人として訪朝すると表明するのであれば、取り立てて異議は差し挟まないことにした。カーターが平壌入りのためソウルに向かっていた頃、新たな一連の動きがあった。これがまたカ―ター訪朝の重要性を高めることになる。
(続く)
対立の激化という破滅的自体の可能性は、北朝鮮をよく知る人々に大きな驚きを与えた。米政府当局者でさえ、制裁によって北朝鮮が方針を転換するとは思えないと認めていた。もともと孤立した北朝鮮は外部からの圧力に割合強かった。対外貿易もほとんどなく、これといった国際的つながりもまるでなかったからである。それどころか、当局者の誇り高い発言や、おなじみの脅迫行為から見て、北朝鮮は降伏するくらいなら本気で戦うように思えた。
それまでも指摘されていたのに、実際ぽっかりと欠落していたこと、それは、米政府と、その決定が北朝鮮での法律に等しい人物との直接対話だった。93年初めに、クリントン政権の初代国防長官レス・アスピンは、金日成に核問題について直接訴えかける施設を派遣するよう提案した。しかし、それは危険すぎるとして却下された。アスピンの後継者ペリー国防長官の下でも、国防総省は金日成との直接接触を引き続き試みた。だが、国務省は当時、高級レベル対話を善行に対する褒美のように考えており、北朝鮮が各種の合意や行動なりで誠意を見せない限り、こうした対話は許可されるべきではないとしていた。
しかし、1994年5月下旬に燃料奉公間問題がさらに紛糾し、驚くべき戦争計画を国防総省が提出すると、クリントンはペリー長官とジム・レイニ―駐韓大使の助言を受けて、サム・ナン、リチャード・ルーガ―の両上院議員に、平壌に行き金日成と会うように要請した。北朝鮮はにわか仕立てのこの訪朝を最後の土壇場で拒否する。金日成のスケジュールが調整できなかったと思われる。
――1994年6月上旬――
クリントンが制裁実施に傾いていた頃、ジミー・カーター元大統領が朝鮮の舞台に足を踏み入れる。再び歴史的役割を果たそうとしたのである。中東和平交渉を仲介し、キャンプデービッド合意をもたらしながら、80年の大統領選で再選に失敗したカーターは、その後アトランタのカーター・センターを拠点にして、世界中の紛争を平和裏に解決すべく活動を展開していた。69歳になるカーターは、中東やエチオピア、スーダン、ソマリア、旧ユーゴスラビアなどでエネルギッシュに調停役を果たしてきた。
カーターは91年から93年まで毎年、金日成から平壌を訪れるよう招請されていたが、その都度、国務省は断るよう求めた。訪朝は朝鮮問題を複雑にするだけで、解決には役立たないというのである。韓国政府は、カーターが在任時代に在韓米軍撤退を画策したのを根に持っており、カーターがまたも朝鮮問題に関わることに反対した。
制裁論議が進む中、カーターは募る懸念を表明するため、クリントンに電話をかけた。6月5日に自宅のあるジョージア州ブレーンズにロバート・ガルーチがやってきて、状況説明を聞かされたが、カーターはがっかりする。米政府は金日成と直接接触するつもりがないと知ったからだ。カーターはすぐにクリントンに書簡を送り、差し迫った危機に鑑み自分は平壌に向かうことを決意したと伝えた。クリントンは、ゴア副大統領の助言もあり、カーターが正式な米政府特使ではなく一民間人として訪朝すると表明するのであれば、取り立てて異議は差し挟まないことにした。カーターが平壌入りのためソウルに向かっていた頃、新たな一連の動きがあった。これがまたカ―ター訪朝の重要性を高めることになる。
(続く)
これは メッセージ 194001 (komash0427 さん)への返信です.