食料援助
投稿者: east_jungle3 投稿日時: 2004/12/14 04:59 投稿番号: [164190 / 232612]
>ただしですね、食料援助とか人道援助と言えるものは、昔から援助国の農産物の余剰品を当てるのが常識であり、これは基本的には現在も変わらない。どこの国が、自国民の食べ物を減らしてまで、他国に援助するでしょうか。
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終戦直後、の大都市での成人に対する配給量は一日297g<二合1勺>で、主食代用のジャガイモ、薩摩芋、大豆、豆カスなどが配給されると、その分だけ米の配給を減らされる仕組み。
カロリ計算では約1200Cで、戦前の日本国の平均2160Cの約半分→国民は栄養失調を免れるために焼け地、空き地などに野菜園を作り、又、闇市や、農家と物々交換をしたりしたという。
配給量絶対不足のうえに、各地で遅配が派生→農家が供出をしぶったり、石炭不足による輸送量の低下なども原因に上げられた。
昭和22年、全国平均遅配日数約10日、さらに、主食の不足総量の大危機に落ちた3月、吉田首相は意を決して、みずから占領軍総司令部に頭を下げ、国民の窮状を訴えた。
当時、米国利権の関係で、日本に送られた良質な食料は日本に届く時→家畜も食べれないと形容出来るほどの、粗悪品に摩り替えられ、変化していた。
吉田氏の要請を受けて、占領総司令部により約70tの食料が、放出された。
緊急だったせいか、この時の配給内容は緊急&直接に日本に手渡され、パン、缶詰類など、良質な食料であったという。
仏のC.de Gaulle の恫喝ではないが、当時の日本国にも、”国体はゴジされたぞ、朕はタラフク食っているぞ、ナンジ人民餓えて死ね、ギョメイギョジ。”と書いたプラカードの食料メーデ=天皇プラカード事件などが派生している。
徳田球一を先頭とする集団は坂下門に達し、天皇との会見を迫ったり、組閣本部に座り込み、吉田組閣を阻止する勢力があった。
”その頃、我が国をオオッタ食料危機は共産党にとり絶好の機会を提供し、彼ら自身としても、平和革命の可能性を信じていたかもしれない”と理解を示している→吉田日記”回想10年”
理解を示さなかったのはD.MacArthur で、この<米よこせ運動>後、断固たる態度をとり、共産主義の脅しには乗らなかった。
吉田氏の嘆願も一度だけであった。
これは メッセージ 164145 (sofiansky2003 さん)への返信です.
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