終戦
投稿者: hangyosyufu 投稿日時: 2004/09/04 22:47 投稿番号: [149919 / 232612]
この日は正午に重大な放送があるというので学校の中庭に教職員、生徒一同が集められた。
これより数日前に広島、長崎に新型爆弾(原爆のことを当時はそのように言っていた)が投下され、またソ連の参戦もあって、いよいよ本土決戦のとき来る・・この日は恐らくソ連への宣戦布告か一億層決起の放送であろうと思っていた。
しかしラジオから聞こえてきたのは「ガア、ガア」という雑音ばかりで、何も聞き取れなかった。
その後、我々は何時ものように運動場わきにある藤棚の木陰で昼弁当を食べた。当時は油まみれの手を洗う石鹸などはなく、
私は祖母が作ってくれた「ぬか袋」を使っていた。
校内ではどこへ行くのも裸足であった。これは当時この学校の校風ともなっていた。
なお通学時はみんな藁草履か下駄を履いていたのを思い出す。
昼食の後はまた工場へ・・・午後4時頃であったと思われる、突如、「非常呼集」がかけられ、全員、運動場に整列した。
そこで校長先生から戦争が終わった事を聞かされた。配属将校が師団司令部から帰校してその正確な情報を伝えたのである。
「降伏ではない、条件付の終戦である」と強調されていたように思う。
みんな信じられないという顔をしていた。
そして大きな声を上げて「ワア、ワア」泣いた。
そのときの印象はただ「悔しい」の一言に尽きる。
「あの時は戦いが終わってほっとした」というような話がその後、各種の記事として見られるようになるが、それは「嘘」である。
あの時、いやあの当時は、私の周りにいた人は誰一人そんな感想を漏らす人はいなかった。
沖縄戦の次はこの四国が主戦場とされ、この学校工場では手りゅう弾も作られていた。
週に一度は軍事教練があり、我々も戦闘の仕方や手りゅう弾の投げ方も教わっていたのである。
とことん戦い、みんな死ぬ気でいたのである。
「何事も運命なのだ」とつぶやいていた秋山先生の言葉が今も耳に残っている。
しかし、「いつの日にか、この仇を必ず討つ!」というのがみんなの一致した気持ちであった。
校長先生は「耐えがたきを耐え忍びがたきを偲んで」の陛下のお言葉を説明されると共に「臥薪嘗胆」
という中国の故事を 話してくれた。この日の夕焼けは格別に赤く染まって見えた。
その後の日本の変貌振りを見ていると正に隔世の感がある。
感無量というところか・・・。今年もまた私はその日に靖国神社へお参りに行こうと考えている。
兄(傷痍軍人)は生きて帰ったが、二人の叔父は靖国の森に眠っているのだ。
これは メッセージ 1 (mitokoumon_2002 さん)への返信です.
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