偽りの愛国者どもに告ぐ! 2
投稿者: everywhere_love_and_peace 投稿日時: 2004/07/26 17:51 投稿番号: [145093 / 232612]
こういう精神状態の持ち主は、自分自身を磨き上げることよりも、「高い評価を受けられる組織」に属することを一生懸命考えるようになる。自分の努力や才能をどうしたら発揮できるのか、ということよりも、「一流大学・一流企業」に入ることに専念しようとしてしまう。
あるいは「ステータスの高い集団に属する」ことに執念を燃やす。
そして、「あのうちの坊ちゃんは○○という会社に入ったそうね。偉いわねえ」みたいに言われたとき、それは自分自身の能力だけではなく、会社の評価という水増し分が大きいことを忘れてしまい、すべて自分が誉められたかのように感じてしまうのだ。
そして、会社をけなされると、あたかも自分が貶されたかのように過剰に反応する。
もし、自分に自信がある人ならば、水増し分をすべて奪い取られたとしても、まるで動じることはないだろう。
しかし、自信がない人は、水増し分しかないわけだから、それが攻撃されることはあたかも自分自身のアイデンティティの存亡の危機であるかのごとく感じられてしまうわけである。
このように「自分の本当の実力じゃない部分、所属する組織のレッテルにすがって生きている人たち」ほど、過剰反応しがちであると思う。
「俺は日本が嫌いだ。日本人が嫌いだ」と言われて、「何を!反日野郎め!俺は韓国が嫌いだ、中国が嫌いだ」という人は、よほど余裕がないのだなと思う。
私だったら「それは残念ですね。でもこれから好きになってもらえるように努力します」と答える(別に彼らに媚びるという意味ではない。念のため)。
自分に好かれるだけの自信があるわけではないが、別に「日本」というレッテルが優秀だろうと劣っていようと、私自身の価値に何ら影響はないと思っているから、そういう発言になるのである。
さて、もう一つの問題がある。
それは「身内を持ち上げるには、他の人たちをおとしめなければならないのか」ということだ。
私は結構冷めた人間だと言われる。たとえば、「家族愛」なんてものはまるで信用していない。
いや、家族愛と称して、家族以外の人たちに対する扱いを家族よりも低くしなければならないというのが、どうも理解できないというか納得できないのだ。
いや、特別優遇ということならわかる。自分の愛する人たちを大切にするというのはわかる。
しかし、だからといって「身内は何でも正しく、身内以外は何でも間違っている」といった行動や考え方を強制されるのがいやなのだ。
家族のだれかと、よそのだれかが対立したとき、身内の方が間違っていると思ってもやはり身内をかばうのか、それとも身内ならではの方法で諭すのか。
いや、本当の意味で身内の人間を大切にしているのは、果たしてどちらの態度なのだろうか。
間違っていてもかばう、というのは、その人はそのレベルでいい、という考え方でもある。
逆に、間違っていることについて心をこめて諭すなら、その身内の人は向上することになるだろう。
身内を誉めてばかりいる人は、他人をけなすばかりになる。そして、けなされることを嫌うようになる。
また、盲目的に誉めることが「身内に対する愛」だと勘違いしているから、批判を受けると「盲目的にけなされた」と思い、「その人は自分の敵だ」と考える。
そして、さらに激しく攻撃することで、自分の「身内に対する愛」を証明しようと考えるようになる。
だったら、「愛国」なんて糞くらえだ。俺は愛国なんて口にせず、黙って淡々とこの国を愛する。
偏狭な愛国を批判したがゆえに「反日の手先」と呼ばれようとも、別に自分にとってダメージはない。
なぜなら、俺は反日じゃないからだ。そのことを自分自身が一番よく知っている。
自分と関係ない悪口を言われたって、それは苦笑するしかないじゃないか?
ここまで二つの問題点を挙げてきた。一つは「自分の本体じゃなくて、自分の属する肩書きを、自分の本当の実力と勘違いする」という問題点。
それから「身内は何でも正しい、と主張することを、身内に対する愛であると勘違いする」という問題点。
もう一つ、第3点として「自分と違うことを、自分より劣っていると勘違いする」ということを挙げられるだろう。
たとえば、関東の味付けは塩(醤油)を中心とするが、関西の味付けはダシが中心である。これはどちらがいいとか悪いではない。
好き嫌いはあってもね。単に「違う」だけのことである。
しかし、すべてに優劣をつけねば気が済まない人がいる。
いつでも自分は優れていると思われたい人、いつも「勝っている」と思いたい人がいる。そういう人は、自分と違うものを見つけると「劣っている」と非難する。
そして、自分は常に上位にあると思いたがる。
あるいは「ステータスの高い集団に属する」ことに執念を燃やす。
そして、「あのうちの坊ちゃんは○○という会社に入ったそうね。偉いわねえ」みたいに言われたとき、それは自分自身の能力だけではなく、会社の評価という水増し分が大きいことを忘れてしまい、すべて自分が誉められたかのように感じてしまうのだ。
そして、会社をけなされると、あたかも自分が貶されたかのように過剰に反応する。
もし、自分に自信がある人ならば、水増し分をすべて奪い取られたとしても、まるで動じることはないだろう。
しかし、自信がない人は、水増し分しかないわけだから、それが攻撃されることはあたかも自分自身のアイデンティティの存亡の危機であるかのごとく感じられてしまうわけである。
このように「自分の本当の実力じゃない部分、所属する組織のレッテルにすがって生きている人たち」ほど、過剰反応しがちであると思う。
「俺は日本が嫌いだ。日本人が嫌いだ」と言われて、「何を!反日野郎め!俺は韓国が嫌いだ、中国が嫌いだ」という人は、よほど余裕がないのだなと思う。
私だったら「それは残念ですね。でもこれから好きになってもらえるように努力します」と答える(別に彼らに媚びるという意味ではない。念のため)。
自分に好かれるだけの自信があるわけではないが、別に「日本」というレッテルが優秀だろうと劣っていようと、私自身の価値に何ら影響はないと思っているから、そういう発言になるのである。
さて、もう一つの問題がある。
それは「身内を持ち上げるには、他の人たちをおとしめなければならないのか」ということだ。
私は結構冷めた人間だと言われる。たとえば、「家族愛」なんてものはまるで信用していない。
いや、家族愛と称して、家族以外の人たちに対する扱いを家族よりも低くしなければならないというのが、どうも理解できないというか納得できないのだ。
いや、特別優遇ということならわかる。自分の愛する人たちを大切にするというのはわかる。
しかし、だからといって「身内は何でも正しく、身内以外は何でも間違っている」といった行動や考え方を強制されるのがいやなのだ。
家族のだれかと、よそのだれかが対立したとき、身内の方が間違っていると思ってもやはり身内をかばうのか、それとも身内ならではの方法で諭すのか。
いや、本当の意味で身内の人間を大切にしているのは、果たしてどちらの態度なのだろうか。
間違っていてもかばう、というのは、その人はそのレベルでいい、という考え方でもある。
逆に、間違っていることについて心をこめて諭すなら、その身内の人は向上することになるだろう。
身内を誉めてばかりいる人は、他人をけなすばかりになる。そして、けなされることを嫌うようになる。
また、盲目的に誉めることが「身内に対する愛」だと勘違いしているから、批判を受けると「盲目的にけなされた」と思い、「その人は自分の敵だ」と考える。
そして、さらに激しく攻撃することで、自分の「身内に対する愛」を証明しようと考えるようになる。
だったら、「愛国」なんて糞くらえだ。俺は愛国なんて口にせず、黙って淡々とこの国を愛する。
偏狭な愛国を批判したがゆえに「反日の手先」と呼ばれようとも、別に自分にとってダメージはない。
なぜなら、俺は反日じゃないからだ。そのことを自分自身が一番よく知っている。
自分と関係ない悪口を言われたって、それは苦笑するしかないじゃないか?
ここまで二つの問題点を挙げてきた。一つは「自分の本体じゃなくて、自分の属する肩書きを、自分の本当の実力と勘違いする」という問題点。
それから「身内は何でも正しい、と主張することを、身内に対する愛であると勘違いする」という問題点。
もう一つ、第3点として「自分と違うことを、自分より劣っていると勘違いする」ということを挙げられるだろう。
たとえば、関東の味付けは塩(醤油)を中心とするが、関西の味付けはダシが中心である。これはどちらがいいとか悪いではない。
好き嫌いはあってもね。単に「違う」だけのことである。
しかし、すべてに優劣をつけねば気が済まない人がいる。
いつでも自分は優れていると思われたい人、いつも「勝っている」と思いたい人がいる。そういう人は、自分と違うものを見つけると「劣っている」と非難する。
そして、自分は常に上位にあると思いたがる。
これは メッセージ 145092 (everywhere_love_and_peace さん)への返信です.