日米開戦と日系二世
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2008/02/22 08:26 投稿番号: [63 / 402]
「『明治型日本人」の典型である一世とアメリカ国籍を持った『日系人』(ジャパニーズ・アメリカン)を合計すると、その数は年を追って増加し、ハワイにおける多数派になっていった。すなわち合衆国全体で見た俯瞰図としての `Japanese` は、少数派で、主導権を握る‘白人‘の顔色をつねにうかがうふうだが、ハワイに限定すれば、その主客はまさに転倒して、言うところの‘ハリフ‘(白人)が、東洋人中のジャパニーズの出方を見る・・という事態をはらんできた。』
「1914年7月、ヨーロッパ大戦争が勃発し、8月23日、日本はドイツに宣戦布告して、日本海軍が活発に動き、』中国山東省青島攻略が始まった。
そのころドイツ軍艦ガイヤー号がマーシャル島方面から逃走して、10月15日に中立国であるアメリカ領のホノルル港に逃げ込んだ。
その後を追ってきたのが、日本海軍軍艦・肥前で、ホノルル港内と港外で睨み合った。そのうちに、11月7日青島が陥落し、翌18日ガイヤー号は武装解除された。この騒動の最中、陸地では、日本人学校同士が勢力あらそいでいがみ合いの醜態をさらし、他人種の顰蹙を買っていた。そしてハワイのアメリカ人は、日本人に対し、次第次第に警戒の度合いを深めていった。」
こんな日本人の高揚感が続く中、日本人1世と2世の間の『大日本帝国』に対する思い入れは鮮やかに離反する。
「この空気の中に、15年に布晆教育会が創立され、ハワイの全日本人学校を一括して同一歩調をとり、「日本語学校」として、善良なる日系アメリカ市民を養成するというお題目のもとに、少しでも米化運動に妨げとみなされることは排除しようと申し合わせた。ハワイがアメリカ合衆国のテリトリイになると、ハワイ永住の覚悟を決めた『ハワイの日本人』たちは、かって、排日の炎が燃え上がったことでもあり、一日も早く‘アメリカ人‘になるべく必死の努力をつづけた。
その態度は、日本古来の『忠誠心』とか『報恩』の精神を、そのままアメリカに向けて尽くすものでもあった。当時の日本人会や、教会などでは、『日米親善実行法』とか「米化心得書」などを作成して配ったのである。それによると、
一、 日曜日をもって、安息日とし、休日とする。
一、 常に頭髪や髭の手入れをなし、少なくても隔日に髭を剃ること。
一、 住宅を清潔にして、その周囲に古缶、古紙を棄てない。
一、 男女とも不必要に金歯の細工をしない。
一、 婦人は、紅、白粉の厚化粧をしないこと。
一、 爪楊枝を人前や、電車の中で使用しないこと。
一、 電車で声高で話をしないこと。
一、 請負師、洋服屋、庭園師などは、決して約束の日を違えぬこと。
一、 スープを、音を立ててすすらぬこと。
一、 他人の談話中、断りなくその一方の人びとに話さぬこと。
一、 自動車礼儀を必ず守ること。
一、 ネクタイを必ずつけること・・・
というように、現代日本人にも適用すべきような事項が多い。
極端なものは、味噌、醤油、漬物、そしてナマ魚は、アメリカ人が嫌うからやめようとか、日本語は一切話さないようにしよう・・と言いだすしまつであった。」
この注意書き、在日の中国人にわれわれが投げかけているマナーに通じるものがある。ま、中国とは、常に程度と量の莫大な違いが存在するが。
『日米開戦の前年を見ると、両国間の雲行きの険悪化もあって、例えばオアフ島の真珠湾軍港には、白人を主体として、中国人、朝鮮人、プエルトリコ人、フィリッピン人、ポルトガル人、ハワイ人などの各国労働者3000人ほどが就労していたが、日系人はシャットアウトされた。
ハワイの陸海軍防備施設の諸工事に、疑いの目で見られていた日系人は毛嫌いされていた。
1940年、日本軍が南中国に進軍を開始するとともに、日米関係はさらにその険悪化を増した。そして翌年1月、野村吉三郎大将が異例のアメリカ大使に任命され、ワシントンと折衝をつづけたが、アメリカは、ついに「在米日本人」の財産を凍結するに及んだ。
だが、その処置を受けた在米日本人たちもアメリカ首脳も、冷戦状態が続いていてもまさか日米が戦端を開くような事態はありえないと思っていた。常識では、日本帝国が必要資源獲得のための南進を、アメリカが干渉して国交が険悪化することがあっても、アメリカから宣戦するようなことはあるまいと考えられた。また日本にしても、中国との3年間に渡る『支邦事変』が長期化して、物資も払底し国民も疲弊しているので、太平洋を隔てた桁違いに強大なアメリカに向かって戦いをいどむなどということは、夢想だにできなかったのだ。もしそのようなことがあれば、それはまさに狂気の沙汰でしかなかった。
『愛国的なハワイの日本人』としても、その常識は変わらなかった。
「1914年7月、ヨーロッパ大戦争が勃発し、8月23日、日本はドイツに宣戦布告して、日本海軍が活発に動き、』中国山東省青島攻略が始まった。
そのころドイツ軍艦ガイヤー号がマーシャル島方面から逃走して、10月15日に中立国であるアメリカ領のホノルル港に逃げ込んだ。
その後を追ってきたのが、日本海軍軍艦・肥前で、ホノルル港内と港外で睨み合った。そのうちに、11月7日青島が陥落し、翌18日ガイヤー号は武装解除された。この騒動の最中、陸地では、日本人学校同士が勢力あらそいでいがみ合いの醜態をさらし、他人種の顰蹙を買っていた。そしてハワイのアメリカ人は、日本人に対し、次第次第に警戒の度合いを深めていった。」
こんな日本人の高揚感が続く中、日本人1世と2世の間の『大日本帝国』に対する思い入れは鮮やかに離反する。
「この空気の中に、15年に布晆教育会が創立され、ハワイの全日本人学校を一括して同一歩調をとり、「日本語学校」として、善良なる日系アメリカ市民を養成するというお題目のもとに、少しでも米化運動に妨げとみなされることは排除しようと申し合わせた。ハワイがアメリカ合衆国のテリトリイになると、ハワイ永住の覚悟を決めた『ハワイの日本人』たちは、かって、排日の炎が燃え上がったことでもあり、一日も早く‘アメリカ人‘になるべく必死の努力をつづけた。
その態度は、日本古来の『忠誠心』とか『報恩』の精神を、そのままアメリカに向けて尽くすものでもあった。当時の日本人会や、教会などでは、『日米親善実行法』とか「米化心得書」などを作成して配ったのである。それによると、
一、 日曜日をもって、安息日とし、休日とする。
一、 常に頭髪や髭の手入れをなし、少なくても隔日に髭を剃ること。
一、 住宅を清潔にして、その周囲に古缶、古紙を棄てない。
一、 男女とも不必要に金歯の細工をしない。
一、 婦人は、紅、白粉の厚化粧をしないこと。
一、 爪楊枝を人前や、電車の中で使用しないこと。
一、 電車で声高で話をしないこと。
一、 請負師、洋服屋、庭園師などは、決して約束の日を違えぬこと。
一、 スープを、音を立ててすすらぬこと。
一、 他人の談話中、断りなくその一方の人びとに話さぬこと。
一、 自動車礼儀を必ず守ること。
一、 ネクタイを必ずつけること・・・
というように、現代日本人にも適用すべきような事項が多い。
極端なものは、味噌、醤油、漬物、そしてナマ魚は、アメリカ人が嫌うからやめようとか、日本語は一切話さないようにしよう・・と言いだすしまつであった。」
この注意書き、在日の中国人にわれわれが投げかけているマナーに通じるものがある。ま、中国とは、常に程度と量の莫大な違いが存在するが。
『日米開戦の前年を見ると、両国間の雲行きの険悪化もあって、例えばオアフ島の真珠湾軍港には、白人を主体として、中国人、朝鮮人、プエルトリコ人、フィリッピン人、ポルトガル人、ハワイ人などの各国労働者3000人ほどが就労していたが、日系人はシャットアウトされた。
ハワイの陸海軍防備施設の諸工事に、疑いの目で見られていた日系人は毛嫌いされていた。
1940年、日本軍が南中国に進軍を開始するとともに、日米関係はさらにその険悪化を増した。そして翌年1月、野村吉三郎大将が異例のアメリカ大使に任命され、ワシントンと折衝をつづけたが、アメリカは、ついに「在米日本人」の財産を凍結するに及んだ。
だが、その処置を受けた在米日本人たちもアメリカ首脳も、冷戦状態が続いていてもまさか日米が戦端を開くような事態はありえないと思っていた。常識では、日本帝国が必要資源獲得のための南進を、アメリカが干渉して国交が険悪化することがあっても、アメリカから宣戦するようなことはあるまいと考えられた。また日本にしても、中国との3年間に渡る『支邦事変』が長期化して、物資も払底し国民も疲弊しているので、太平洋を隔てた桁違いに強大なアメリカに向かって戦いをいどむなどということは、夢想だにできなかったのだ。もしそのようなことがあれば、それはまさに狂気の沙汰でしかなかった。
『愛国的なハワイの日本人』としても、その常識は変わらなかった。
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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