朝鮮通信使 9 民族性の形成
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/05/06 09:12 投稿番号: [301 / 402]
半島に覇をとなえた朝鮮人の国々は、有史以前からほぼシナの属国としてのみ存在を許されてきた気の毒な国だ。それを語るに、大国シナの隣という地勢学的に常に不運であった、しようがないなどと同情ある論が存在するが、詭弁であろう。なぜなら北方の騎馬民族諸集団は絶え間なくシナ領土を侵略し、しかも中原に統一王権を確立した唐、隋、元、清などの強力な王朝は漢民族ではなかったのだ。それなのに長城外の諸族の一つ朝鮮民族は、ただの一度もシナ領土に攻め込む、その気配すらなかった。唐・元・金・明・清・と、中原の覇者は代わろうと、いつも敗者=被支配者として屈辱的な歴史を蒙ってきた。こんな民族は世界にも例がない。それが民族色に影響しないはずがないだろう。
異民族に屈服するということは具体的にはどういうことなのか。元寇を絡めて見てみよう。
『高麗伝』より
「・高宗十八年(1231)十二月二十三日、(蒙古の)使者が来た。曰く、「崔瑀から進上された貢物は、欲しくないものばかりだ。別の財宝を持ってくるがいい。また戦いが長引き、兵士の衣服がすべて破れているので、百万人分を調達せよ。馬一万匹を選んで持ってくるように。王子・王女などはもちろん、身分が高い家から子女を供出せよ。また男女一千人を選び、蒙古皇帝に贈ること。これらは迅速に行え。」
「・高宗十九年(1232)四月、高麗は蒙古に使者を送って奏上した。高麗王は、「臣」と称した。曰く、「要求された貢物が多すぎて調達が困難である。現在集め得たものを贈
るので、事情を考慮願いたい」云々と。」
元が要求する男女一千人は奴婢・奴隷要員である。奴隷とは、最低限の食料を与えられ死ぬまで過酷にこき使われるだけの存在である。危険な土木作業現場では虫けらのように死んでいく消耗品で墓も弔う者もない。
清に逆らった丙子胡乱では50万人もの李氏朝鮮人民が豆満江を越え満州の地に連れ去られた。そのときの諸記録に、「彼らは逃げも逆らいもせず、数百人ずつの隊列に胡人2人ほどの監視でよかった」とある。哀れ、歴史から叩き込まれた諦観であろうか。
「・元宗十五年(1273)三月、元使が高麗を訪れて「南宋の軍人が妻を求めているので、夫のない婦女百四十人を献上するように」と命じた。督促は秋に至るまで激しく行われた。」
「・高麗に駐在する元の役人もまた良家の婦女を求め、美女を選んで強制的に結婚した。高麗王は、何も言わなかった。」『高麗史提綱』
「 ・忠烈王元年(1274)十月、処女を元に献上する時期が近づいていたので、国中で結婚が禁止された。」
「 ・忠烈王二年(1275)閏三月、元使が高麗に至り、帰附軍のため妻となる女を献上するよう求めた。高麗王は寡婦処女を選別するための監督に金応文ら五人を諸道に派遣した。」
このように元は盛んに高麗美女を要求している。承った朝鮮は国家が女衒そのものとならざるを得ず、李朝の高官自ら指揮をして国中の美女・処女をあさった。選別された美女は主に辺境に送られ異人種の駐屯兵にあてがわれた。まるで「従軍慰安婦」そのものではないか。しかも元は侵略した当初より半島各所に駐留軍を置き、その兵どもにも妻を要求した。
大東亜戦争終了後、いちおう秩序のあるとされる米軍が日本に進駐したが、米兵による押し込み強姦の件数は公表された数とはバカバカしいほどかけ離れたものだった。
もし、ソ連に占領されていたら被害はアメリカのそれとは比較にならないほどであろうし、蒙古の朝鮮支配はそれさえ慈悲深く思えるほどではなかったか。
猛古兵が民家に押し入り、夫の前で妻を、親の前で子女を蹂躙することが常態だったであろう。逆らうものはその場で殺された。あるいは軍律違反の証拠隠滅として逆らわなくても殺された。
これは近代になっても一部の日本兵が南京で、良心の呵責を感じることなく普通にやった。認めるべきことは認めよう。生死を賭けた戦闘の末の武力制圧は暴走するものだ。
朝鮮半島の大部分が山地で構成されている。勇壮な遊牧民が跋扈した草原は豆満江の向こうだ。
山間に拠っていたかれらは草原の民のように往来・競合することが少なく、こういう条件では大英雄が出にくい。生来朝鮮人の性質は保守的で、机上屁理屈をこね回すのが好きな臆病な民族だったろう。
そこに超獰猛で狡知に長けた蒙古人の血が140年間にわたり注入されたのだ。古より倭と深い交流のあった百済や加羅人は人種として消えてしまったと見るほかない。
つづく
異民族に屈服するということは具体的にはどういうことなのか。元寇を絡めて見てみよう。
『高麗伝』より
「・高宗十八年(1231)十二月二十三日、(蒙古の)使者が来た。曰く、「崔瑀から進上された貢物は、欲しくないものばかりだ。別の財宝を持ってくるがいい。また戦いが長引き、兵士の衣服がすべて破れているので、百万人分を調達せよ。馬一万匹を選んで持ってくるように。王子・王女などはもちろん、身分が高い家から子女を供出せよ。また男女一千人を選び、蒙古皇帝に贈ること。これらは迅速に行え。」
「・高宗十九年(1232)四月、高麗は蒙古に使者を送って奏上した。高麗王は、「臣」と称した。曰く、「要求された貢物が多すぎて調達が困難である。現在集め得たものを贈
るので、事情を考慮願いたい」云々と。」
元が要求する男女一千人は奴婢・奴隷要員である。奴隷とは、最低限の食料を与えられ死ぬまで過酷にこき使われるだけの存在である。危険な土木作業現場では虫けらのように死んでいく消耗品で墓も弔う者もない。
清に逆らった丙子胡乱では50万人もの李氏朝鮮人民が豆満江を越え満州の地に連れ去られた。そのときの諸記録に、「彼らは逃げも逆らいもせず、数百人ずつの隊列に胡人2人ほどの監視でよかった」とある。哀れ、歴史から叩き込まれた諦観であろうか。
「・元宗十五年(1273)三月、元使が高麗を訪れて「南宋の軍人が妻を求めているので、夫のない婦女百四十人を献上するように」と命じた。督促は秋に至るまで激しく行われた。」
「・高麗に駐在する元の役人もまた良家の婦女を求め、美女を選んで強制的に結婚した。高麗王は、何も言わなかった。」『高麗史提綱』
「 ・忠烈王元年(1274)十月、処女を元に献上する時期が近づいていたので、国中で結婚が禁止された。」
「 ・忠烈王二年(1275)閏三月、元使が高麗に至り、帰附軍のため妻となる女を献上するよう求めた。高麗王は寡婦処女を選別するための監督に金応文ら五人を諸道に派遣した。」
このように元は盛んに高麗美女を要求している。承った朝鮮は国家が女衒そのものとならざるを得ず、李朝の高官自ら指揮をして国中の美女・処女をあさった。選別された美女は主に辺境に送られ異人種の駐屯兵にあてがわれた。まるで「従軍慰安婦」そのものではないか。しかも元は侵略した当初より半島各所に駐留軍を置き、その兵どもにも妻を要求した。
大東亜戦争終了後、いちおう秩序のあるとされる米軍が日本に進駐したが、米兵による押し込み強姦の件数は公表された数とはバカバカしいほどかけ離れたものだった。
もし、ソ連に占領されていたら被害はアメリカのそれとは比較にならないほどであろうし、蒙古の朝鮮支配はそれさえ慈悲深く思えるほどではなかったか。
猛古兵が民家に押し入り、夫の前で妻を、親の前で子女を蹂躙することが常態だったであろう。逆らうものはその場で殺された。あるいは軍律違反の証拠隠滅として逆らわなくても殺された。
これは近代になっても一部の日本兵が南京で、良心の呵責を感じることなく普通にやった。認めるべきことは認めよう。生死を賭けた戦闘の末の武力制圧は暴走するものだ。
朝鮮半島の大部分が山地で構成されている。勇壮な遊牧民が跋扈した草原は豆満江の向こうだ。
山間に拠っていたかれらは草原の民のように往来・競合することが少なく、こういう条件では大英雄が出にくい。生来朝鮮人の性質は保守的で、机上屁理屈をこね回すのが好きな臆病な民族だったろう。
そこに超獰猛で狡知に長けた蒙古人の血が140年間にわたり注入されたのだ。古より倭と深い交流のあった百済や加羅人は人種として消えてしまったと見るほかない。
つづく
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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