朝鮮通信使 8 朝鮮人の民度
投稿者: hendazo04 投稿日時: 2009/04/28 15:17 投稿番号: [299 / 402]
長い休憩だった。
朝鮮通信使は釜山から対馬・壱岐・玄界灘の藍島と、荒海を乗り越え、そこから関門海峡を通り瀬戸内海を西端から東端まで航行、枚方から川船に乗り換え内陸部の淀まで遡上った。内海に入るまでは冬の荒天に翻弄され、濃霧にまかれ船団がばらばらになったり座礁したりもした。
対馬藩の随行員を含めると1000人にも上る一行は、宿泊地の先々で豪勢な供応を受けながらゆるゆると、京都まで5ヶ月も船旅をつづけた。ここからいよいよ陸路となる。
さて、ここでもう一度朝鮮通信使の意義と背景を確認しておこう。それは現在の日韓関係につながるスパンの長いものであるが、とりあえず7世紀からとしてみると、白村江の戦い以来大和朝廷は半島から手を引く。半島との係わり合いはほぼなくなったが、鎌倉末期、元の尖兵となって高麗軍が襲来、対馬・壱岐で残虐の限りを尽くした。
室町・戦国時代には倭寇が半島や大陸沿岸を略奪し、秀吉は明国征伐の戦初めとして半島を蹂躙した。
このように概して非友好的な両国関係だったが、諸外国との交易ロンダリングの地として往来はそれなりに続いていた。
15世紀初頭室町幕府と国交を回復するが、内政外交とも常に宗主国の厳重な管理下にあった。朝鮮国が実行する朝貢とも取れる日本への遣使は、明、清と変わったが、どちらも宗主国の命令によるものだった。
明・清は日本の情報を積極的に望んだ。なにせ世界に冠たる大明国を征服しようと企む日本人である、気にならないはずがない。
したがって朝鮮通信使は宗主国の代理としての外国、しかも潜在的敵国への公式訪問ということになる。当然その大使節団は規律が行き届き威儀を正したものであったはずだ。
なのに・・、再掲するが、
『江戸時代を「探検」する』 山本博文 新潮社 に次の記述がある。
「通信使の随員の中には、そのような扱い(日本側の厚遇をさす)に慣れ、段々と尊大な行動をする者も現れた。出船の時に、前夜出された夜具を盗んで船に積み込んだり、食事に難癖をつけて、魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したりというような些細なことから、予定外の行動を希望し、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりするようなこともあったという」
Wiki=「屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる。供された食事に難癖をつけ夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる。魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したり・・。」
このほかに献上物を満載した船1艘を失火により積載物ともに全焼、原因は泥酔の果ての燈火の扱いという。さらに火薬の管理者が火薬のそばでタバコを吸って爆発騒ぎを起こす。幸い類焼はなかったが、当人は全身タバコになってしまい苦悶の末死亡した。
一方朝鮮随行員は徒党を組んで街を練り歩き、泥酔して夜道で大声をだして憚らず、はては娼妓を船に連れこんで淫行にふけるという傍若無人ぶり。
さらに、民家の庭先の鶏を収奪するは、阻止しようとしたものを殴り倒すは、市中の飼い猫や犬を捕らえて食ったりしている。
まさか宗主国シナ様も属国の遣使がこれほど自堕落むちゃくちゃなものとは考えもしなかったであろう。知らぬが仏とはよく言ったものだ。
なぜこうなるかと探ろうと試みても、女の愚痴を根気よく聞かされるようなもので中身は低次元だ。彼らの振る舞いを簡単に解析すれば、ひとえに「民度」ということだろう。ではなぜこんな低劣な民度が形成されたのか、推理してみたい。
しかしこれらの「厚遇に応じて段々に増長する」民族性は、いかにも今も変わらぬ朝鮮人気質と、ひどく納得できるものがあるのである。
つづく
朝鮮通信使は釜山から対馬・壱岐・玄界灘の藍島と、荒海を乗り越え、そこから関門海峡を通り瀬戸内海を西端から東端まで航行、枚方から川船に乗り換え内陸部の淀まで遡上った。内海に入るまでは冬の荒天に翻弄され、濃霧にまかれ船団がばらばらになったり座礁したりもした。
対馬藩の随行員を含めると1000人にも上る一行は、宿泊地の先々で豪勢な供応を受けながらゆるゆると、京都まで5ヶ月も船旅をつづけた。ここからいよいよ陸路となる。
さて、ここでもう一度朝鮮通信使の意義と背景を確認しておこう。それは現在の日韓関係につながるスパンの長いものであるが、とりあえず7世紀からとしてみると、白村江の戦い以来大和朝廷は半島から手を引く。半島との係わり合いはほぼなくなったが、鎌倉末期、元の尖兵となって高麗軍が襲来、対馬・壱岐で残虐の限りを尽くした。
室町・戦国時代には倭寇が半島や大陸沿岸を略奪し、秀吉は明国征伐の戦初めとして半島を蹂躙した。
このように概して非友好的な両国関係だったが、諸外国との交易ロンダリングの地として往来はそれなりに続いていた。
15世紀初頭室町幕府と国交を回復するが、内政外交とも常に宗主国の厳重な管理下にあった。朝鮮国が実行する朝貢とも取れる日本への遣使は、明、清と変わったが、どちらも宗主国の命令によるものだった。
明・清は日本の情報を積極的に望んだ。なにせ世界に冠たる大明国を征服しようと企む日本人である、気にならないはずがない。
したがって朝鮮通信使は宗主国の代理としての外国、しかも潜在的敵国への公式訪問ということになる。当然その大使節団は規律が行き届き威儀を正したものであったはずだ。
なのに・・、再掲するが、
『江戸時代を「探検」する』 山本博文 新潮社 に次の記述がある。
「通信使の随員の中には、そのような扱い(日本側の厚遇をさす)に慣れ、段々と尊大な行動をする者も現れた。出船の時に、前夜出された夜具を盗んで船に積み込んだり、食事に難癖をつけて、魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したりというような些細なことから、予定外の行動を希望し、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりするようなこともあったという」
Wiki=「屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる。供された食事に難癖をつけ夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる。魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したり・・。」
このほかに献上物を満載した船1艘を失火により積載物ともに全焼、原因は泥酔の果ての燈火の扱いという。さらに火薬の管理者が火薬のそばでタバコを吸って爆発騒ぎを起こす。幸い類焼はなかったが、当人は全身タバコになってしまい苦悶の末死亡した。
一方朝鮮随行員は徒党を組んで街を練り歩き、泥酔して夜道で大声をだして憚らず、はては娼妓を船に連れこんで淫行にふけるという傍若無人ぶり。
さらに、民家の庭先の鶏を収奪するは、阻止しようとしたものを殴り倒すは、市中の飼い猫や犬を捕らえて食ったりしている。
まさか宗主国シナ様も属国の遣使がこれほど自堕落むちゃくちゃなものとは考えもしなかったであろう。知らぬが仏とはよく言ったものだ。
なぜこうなるかと探ろうと試みても、女の愚痴を根気よく聞かされるようなもので中身は低次元だ。彼らの振る舞いを簡単に解析すれば、ひとえに「民度」ということだろう。ではなぜこんな低劣な民度が形成されたのか、推理してみたい。
しかしこれらの「厚遇に応じて段々に増長する」民族性は、いかにも今も変わらぬ朝鮮人気質と、ひどく納得できるものがあるのである。
つづく
これは メッセージ 1 (hendazo04 さん)への返信です.
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