南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

韓国の土下座文化の歴史-2

投稿者: akanbei_21c 投稿日時: 2003/11/25 15:39 投稿番号: [3522 / 29399]
http://morioka.cool.ne.jp/yakinikubuka/truekorea.html
大清国の聖皇帝の功徳の牌

大清国の崇徳元年冬十二月に仁寛和聖皇帝は、和を破ったのは我々から始めたと、大いに怒りが生じ、兵の 威力が来臨し、東に向かって火がつくように来れば、すべて恐れて受け止めなかった。その時に、我等の寡君は南漢に住み、恐れて春氷を踏み、天明を待つごとく五十余日、東南の諸路の兵は続々と敗れた。西北の将軍たちは山頂に避け、一歩歩めなかった。城の内の食料また尽きた。その時、大兵が城を取ることは、寒風が秋季の木葉を落とし、炎に鳥の羽をやくようであった。

聖皇帝は殺さないのを、上徳を宣言するのを緊要とし、勅を下し、説得するに、「来たときは、お前をことごとく生かす。来なかったときは、皆殺しにする」と言った。それから英俄爾岱、馬福塔諸将軍たちは聖皇帝の勅を受け、来往して開き行くので、我等の寡君は文武諸大臣たちを集めて曰く、「私は大国に対して和を結び、十年となった。私の暗愚により天が討伐するを急がせ、万姓の民は災いに遭った。その罪は私の個人自身にある。」

聖皇帝はまずは殺すに忍びず、悟らせるに、「私はどうしてあえて我が上祖宗たちの道を全うして我が下民を大切にして勅を謹んで受け入れないであろうか」と言った後、諸大臣たちが賞賛してつき従い、そして数十の騎兵を伴って軍の前に来、罪を認めたので、聖皇帝は礼をして慈しみて恩で撫して閲したので、心中を出して話した。褒め与えた恩が付き従う大臣たちにことごとく及んだ。礼を行い終えた後、ただちに我等の寡君を後に都城に帰し、すぐさまに南方に行った兵を収め、東方に退いて民を撫し田の仕事を奮起させたので、遠近に流れ散った民が皆再び来、居る事は大恩ではないか。

小国が上国に罪を得て久しくなる。己未の年、都元帥姜弘立を遣わし、明国に兵を助けに行ったことは、敗れて捕らわれた後、太祖有威皇帝は、わずかに姜弘立、同等の数人を留め、他を皆退回させた。恩これより大なるものなし。このようであるのに、小国はまた迷って、理解しないでいるので、丁卯の年聖皇帝は将軍を遣わし、東方の地を来征した後、我国の君臣が皆海島に逃れ入り、使いを遣わし、和睦したいと求めた。

聖皇帝は言葉に従い、兄弟の国とし、地土を全うさせた。姜弘立を返還するのを允した。これより以後行、礼を行うことは絶えず、使が貢することは絶えることがなかった。恩なき浅薄な衆議が思い上がり、騒乱が階段のように起こり、小国が辺境の大臣たちに謙虚でない言葉の書を書いて遣わした。その書を使いとして来た大臣たちは持っていくことができた。聖皇帝は、なおも寛大に取り計らい、ただちに兵を送らなかった。まず明旨を降して戦う時を定めて再三再四説得することは、耳をつかみ教示するよりなお超えた。しかしまた又喜んで従わなかったことは、小国の諸大臣たちの罪はいっそう免れられなかった。

聖皇帝の大兵は南漢を取り、また勅を下し、先ず一部隊の兵を遣わし、江都を取り、王子たち、宮嬪、大臣たち、女子供が皆捕らえられた後、 聖皇帝は諸将軍をして犯すなかれ害するなかれと禁じ、我等の官吏たち、宦官たちを見張らせた。このような大恩を与えたので、小国の君臣捕らわれた娘たちは皆旧地にあり、霜雪変じて春となり、乾旱転じて時の雨となるごとく、小国が亡んだのをもう一度在らせた。宗道が絶えたのをもう一度継いだ。
(続く)
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)