Re: バカウヨ御用達新聞の記事
投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/04/23 17:07 投稿番号: [27489 / 29399]
この一連の処刑は、流れ作業のように、極めて手順よく行なわれていた。大声で指示する
人々もいなかった。そのことから見て、明らかに陸軍の上級者の指示によるものであると
推察せざるをえなかった。したがって、部外者である私が口を出す余地はないと感じた
次第であった。
そこで、私は、付近にいた一人の若い陸軍士官に、尋ねた。
「なぜこのようなことをするのか」
答えて日く、
「数日前の夜、一人の勇敢な中国人が、わが陸軍の小隊長級の若い士官十名か十一名かは
分かりませんが寝ている寝室に侵入して、全員を刺殺したそうです。そこで、彼らの
戦友や部下たちが、報復のために、その宿舎の付近の住民を処刑しているとのことです」
彼の説明が正しかったか否かは私には分からなかった。あるいは、そう説明するように
教えられていたのか知れなかった。
その日、私は、しばらく一連の処刑を見たほか、合計十台のトラックが倉庫地帯に入る
のを確認したのち、現場から退去した。そして、その後は、主として、市内の東部を捜索
しながら飛行場へ帰った。
人間とは不思議な性格を持っているようである。最初に下関で処刑を見た時には、
私は甚だしい衝撃を受けた。ところが、しばらくその場にいると、次第に異常さを
感じなくなった。処刑をしている将兵たちの中にも同様に感じていた者がいたかも
知れない。その場の雰囲気は、平時には考えられないほど特異なものであった。
また、現場にいた将兵の中には、上海から南京に至るまでの間に、自らの上官、同僚、
部下などを失ったための憤りにも似た特異な感情を持っていた人々がいたことであろう。
ところが、そのような異常な感情は軍人や男たちばかりにあるのではなかった。昭和
七年の上海事変が一段落したのち戦跡を見て回ったさい、私は、その場に居合わせた
上海在住の日本人の若い女性たちが、放置されていた中国兵の死体を指差しながら、私が
それまでに想像だにしていなかったような言葉を使って、平然としていたからであった。
二十六日には、隊務のために、基地を離れることができなかった。
2 第二日目
十二月二十七日。この日は市内の西部を重点的に見回る予定であった。が、前々日の
光景があまりにも鮮明に記憶に残っていたので、念のために、まず、再び下関に行く
ことにした。
下関の処刑場に近づくと、この日もまた、城内の方から、中国人を乗せた無蓋の
トラックが、続々とやってきて、倉庫地帯に消えていた。
再び、警戒中の哨兵にことわって、門を入ったところ、前々日と同じような処刑が
行なわれていた。そこで、ある種の疑間が生じた。
それは、
「多数の中国人を、大した混乱もなく、どうして、ここまで連れてくることができるか」
ということであった。
そこで、処刑場の入口付近にいた一人の下士官に、その理由を尋ねた。ところが、彼は、
何のためらいもなく、
「城内で、戦場の跡片付けをさせている中国人に、〃腹のすいた者は手を上げよ〃と
言って、手を上げた者を食事の場所に連れていくかのようにして、トラックに乗せて
いるとのことです」
と説明してくれた。
そこで、更に、
「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」
と質間したところ、
「上官から、弾薬を節約するために、そうするように命じられているからです」
との答が返ってきた。
人々もいなかった。そのことから見て、明らかに陸軍の上級者の指示によるものであると
推察せざるをえなかった。したがって、部外者である私が口を出す余地はないと感じた
次第であった。
そこで、私は、付近にいた一人の若い陸軍士官に、尋ねた。
「なぜこのようなことをするのか」
答えて日く、
「数日前の夜、一人の勇敢な中国人が、わが陸軍の小隊長級の若い士官十名か十一名かは
分かりませんが寝ている寝室に侵入して、全員を刺殺したそうです。そこで、彼らの
戦友や部下たちが、報復のために、その宿舎の付近の住民を処刑しているとのことです」
彼の説明が正しかったか否かは私には分からなかった。あるいは、そう説明するように
教えられていたのか知れなかった。
その日、私は、しばらく一連の処刑を見たほか、合計十台のトラックが倉庫地帯に入る
のを確認したのち、現場から退去した。そして、その後は、主として、市内の東部を捜索
しながら飛行場へ帰った。
人間とは不思議な性格を持っているようである。最初に下関で処刑を見た時には、
私は甚だしい衝撃を受けた。ところが、しばらくその場にいると、次第に異常さを
感じなくなった。処刑をしている将兵たちの中にも同様に感じていた者がいたかも
知れない。その場の雰囲気は、平時には考えられないほど特異なものであった。
また、現場にいた将兵の中には、上海から南京に至るまでの間に、自らの上官、同僚、
部下などを失ったための憤りにも似た特異な感情を持っていた人々がいたことであろう。
ところが、そのような異常な感情は軍人や男たちばかりにあるのではなかった。昭和
七年の上海事変が一段落したのち戦跡を見て回ったさい、私は、その場に居合わせた
上海在住の日本人の若い女性たちが、放置されていた中国兵の死体を指差しながら、私が
それまでに想像だにしていなかったような言葉を使って、平然としていたからであった。
二十六日には、隊務のために、基地を離れることができなかった。
2 第二日目
十二月二十七日。この日は市内の西部を重点的に見回る予定であった。が、前々日の
光景があまりにも鮮明に記憶に残っていたので、念のために、まず、再び下関に行く
ことにした。
下関の処刑場に近づくと、この日もまた、城内の方から、中国人を乗せた無蓋の
トラックが、続々とやってきて、倉庫地帯に消えていた。
再び、警戒中の哨兵にことわって、門を入ったところ、前々日と同じような処刑が
行なわれていた。そこで、ある種の疑間が生じた。
それは、
「多数の中国人を、大した混乱もなく、どうして、ここまで連れてくることができるか」
ということであった。
そこで、処刑場の入口付近にいた一人の下士官に、その理由を尋ねた。ところが、彼は、
何のためらいもなく、
「城内で、戦場の跡片付けをさせている中国人に、〃腹のすいた者は手を上げよ〃と
言って、手を上げた者を食事の場所に連れていくかのようにして、トラックに乗せて
いるとのことです」
と説明してくれた。
そこで、更に、
「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」
と質間したところ、
「上官から、弾薬を節約するために、そうするように命じられているからです」
との答が返ってきた。
これは メッセージ 27488 (sho*jou** さん)への返信です.