Re: バカウヨ御用達新聞の記事
投稿者: shoujouji 投稿日時: 2012/04/23 17:10 投稿番号: [27490 / 29399]
このような処刑が、南京占領から二週間近くを経た後の二十五日と二十七日に手際よく
行なわれていた。もっとも二十六日と二十五日前と二十七日後にどのような処刑が
行なわれていたかは分からなかったが(註 第三○旅回長佐々木到一少将の手記によれば、
十二月二十四日までに約一万五千人以上、十二月二十四日から翌年一月五日贖までに
数千人の処刑をしたとのことである)、二日間のことから察して、それが戦場にありがちな、
一時的な、興盲状態での対敵行動であるとは私には思われなかった。この日もまた、
一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動であるように感じた。
私は、この二目間に下関で見た合計約二十台分の、言いかえれぱ、少なくとも合計
五百人以上の中国人の処刑だけでも、大虐殺であった、と信じている。もっとも、
どれだけの被害者があれば大虐殺であるかについては、人それぞれに見解の相違が
あるかも知れないが。
それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体のこととも考え合わせて、
正確な数字は分からなかったが、莫大な数の中国人の犠牲者があったのではないか、
と考えざるをえなかった。
そうだとすれば、それは、明らかに、国際法上の大間題ではないかと思われた。が、
当時の私には、そのことを突っ込んで検討する時間的な余裕がなかった。その後間も
なく、私自身が作戦飛行に従事せねばならなかったからであった。
下関での第二日目の処刑場を確認したのち、本来の遺体捜索活動に移った。そして、
下問付近を見回ってから、再び福一江門から城内に入り、主として、市内の北西部と
中心部にある難民区を調査した。
城内では、幹線道路の両側を、なしうる限り、約一千メートルの問隔をおいて支線に
入って、日本機の消息を間いて回った。難民区には大勢の中国人がいて、車から見た
限りでは、平時の中国の他の都市とあまり変わらないようであった。そこでは、一軒の
民家に日本機一機が墜落して、家族全員が死亡したとの気の毒な話を聞いた。が、
機体は片付けられていたし、搭乗員の遺体は他に持ち去られていた。
その後、市の南部にある中華門を出て、雨花台方面を調査したところ、計九名の遺体を
発見することができた。二人は九六式艦爆の搭乗員で、七人は九六式陸攻の搭乗員であった。
いずれも土葬で、立派な木製の棺に納められていた。私はそのような手厚い取り扱いを
してくれた紅卍会の人々に感謝せずにはいられなかった。
この日、多くの中国人と接触したが、城内でも、城外でも、多くの人々が積極的に、
私の質問に答えてくれた。また、雨花台方面の道路で出会った農民たちは、笑顔さえ
浮かべ、頭を下げて、われわれに挨拶をしていた。それは、わが国の地方の農村にも
よくある光景と同じであった。
奥山正武「私の見た南京事件」p33-41
行なわれていた。もっとも二十六日と二十五日前と二十七日後にどのような処刑が
行なわれていたかは分からなかったが(註 第三○旅回長佐々木到一少将の手記によれば、
十二月二十四日までに約一万五千人以上、十二月二十四日から翌年一月五日贖までに
数千人の処刑をしたとのことである)、二日間のことから察して、それが戦場にありがちな、
一時的な、興盲状態での対敵行動であるとは私には思われなかった。この日もまた、
一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動であるように感じた。
私は、この二目間に下関で見た合計約二十台分の、言いかえれぱ、少なくとも合計
五百人以上の中国人の処刑だけでも、大虐殺であった、と信じている。もっとも、
どれだけの被害者があれば大虐殺であるかについては、人それぞれに見解の相違が
あるかも知れないが。
それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体のこととも考え合わせて、
正確な数字は分からなかったが、莫大な数の中国人の犠牲者があったのではないか、
と考えざるをえなかった。
そうだとすれば、それは、明らかに、国際法上の大間題ではないかと思われた。が、
当時の私には、そのことを突っ込んで検討する時間的な余裕がなかった。その後間も
なく、私自身が作戦飛行に従事せねばならなかったからであった。
下関での第二日目の処刑場を確認したのち、本来の遺体捜索活動に移った。そして、
下問付近を見回ってから、再び福一江門から城内に入り、主として、市内の北西部と
中心部にある難民区を調査した。
城内では、幹線道路の両側を、なしうる限り、約一千メートルの問隔をおいて支線に
入って、日本機の消息を間いて回った。難民区には大勢の中国人がいて、車から見た
限りでは、平時の中国の他の都市とあまり変わらないようであった。そこでは、一軒の
民家に日本機一機が墜落して、家族全員が死亡したとの気の毒な話を聞いた。が、
機体は片付けられていたし、搭乗員の遺体は他に持ち去られていた。
その後、市の南部にある中華門を出て、雨花台方面を調査したところ、計九名の遺体を
発見することができた。二人は九六式艦爆の搭乗員で、七人は九六式陸攻の搭乗員であった。
いずれも土葬で、立派な木製の棺に納められていた。私はそのような手厚い取り扱いを
してくれた紅卍会の人々に感謝せずにはいられなかった。
この日、多くの中国人と接触したが、城内でも、城外でも、多くの人々が積極的に、
私の質問に答えてくれた。また、雨花台方面の道路で出会った農民たちは、笑顔さえ
浮かべ、頭を下げて、われわれに挨拶をしていた。それは、わが国の地方の農村にも
よくある光景と同じであった。
奥山正武「私の見た南京事件」p33-41
これは メッセージ 27489 (sho*jou** さん)への返信です.