元皇軍看護婦、軍夫の証言
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2003/07/28 22:07 投稿番号: [2699 / 29399]
ほとんど、治療されなかった例として。
再掲ですが。
「従軍慰安婦と歴史認識」から
*中里さん(元海軍従軍看護婦)
・ ・・・。
私は海南島の三亜(さんや)と言うところでこの体験をいたしました。
中国の一番南端のベトナムに近いところにある、南シナ海の島です。
そこに海軍病院があったのです。
海軍病院では毎週一回、梅毒の検診をやっていました。
トラック四台、一台二十五人乗りですから、百名の「慰安婦」が検診に来ました。
圧倒的に朝鮮人の方が多かったのですが、日本人もわずかに乗っておられましたし、
台湾人の方も一台くらいいましたでしょうか。
梅毒には、一期から三期まであるんですけど、一番恐いのは、外に出る軟性下疳
(なんせいげかん)とか淋病です。
・ ・・・。
こういう症状をもった「慰安婦」さんが何人かいらしたのです。
自分と同じくらいの年の子がそういう境遇にあるのを見ると・・・・。
「痛みますか?」と聞くと泣くんです。
涙をぽろぽろとこぼして「アイゴー、アイゴー」というんです。
アイゴーという言葉は、朝鮮語では「哀しい」と言う言葉なんだそうです。
・ ・・・・。
もう、52年たちましたけれども、まだ忘れられない。
もう生きていないと思いますけど・・・。
その子たちが、来るたびに、ひどくなっているの。
一日に二十人から三十人、そういうひどい症状を持っているのに、
****日本の兵隊と交渉を持たなければ殴られる状況なんだと言うこと・・・。
日本人の慰安婦は「海南荘」と言う木造の建物で、将校用。
朝鮮人、台湾人慰安婦は「バナナや、やしの葉っぱ」で作られた、スコールが避けられない粗末な建物。
・・・・。
私の名前は戸田と言ったんですけど「トダー」って怒鳴るのよ。
朝鮮の人たちは・・・よくわからなかったのよね、発音が。
・・「兵隊を連れてくるな」と言うようなことを私達に盛んに激しい口調で、怒鳴られた
というのは覚えています。
・・・・
****貴重な医薬品は朝鮮人慰安婦には絶対に使いませんでした。
性病に罹った兵隊には打っていました。
*荒木さん(元軍夫)
私は戦時中に陸軍の御用船に賄い夫として乗っていました。
戦時中、門司から15,6隻で船団を組んでサイゴン、タイ国に向けて出発しました。
途中、台湾の高雄に立ち寄り、水や食料などを補給し、翌朝船が出たわけです。
ところがアメリカの潜水艦が待ち構えていて、何隻
かの船はやられてしまいました。
船はバラバラに逃げましたが、又よってきました。海面に浮かんでいる人を助けるためです。
その時に、何人かの女の人も浮かんでいたのです。
兵隊も浮いている。軍属も浮いていました。
それで、無事だった私の船から、タラップを降ろして、助けようとしたのです。
その時、上官が言いました。
「兵隊を先に助けろ」と。それから軍属を助ける。そして言葉は悪いが耐えてください。
****「朝鮮ピーは、朝鮮に行けばなんぼでもおるから、助けんでもいいち」
上官はそう命令したのです。
海面に浮いていた女性は「朝鮮人の慰安婦」だったのです。
でも上官は助けるなと命令しました(涙声になる)。
本当に涙が出ました。
今でもその時のお詫びの気持ちで、自分の部屋に40年も朝鮮の人形を飾っております。
手をふって「助けてくれ、助けてくれ」という女の人を置き去りにした時のあのことが、74歳になった今も忘れ切れません。
それから、これはサイゴンとタイの話です。
そこにも慰安所があり、朝鮮の女の人は私のことを「アラキィ、みんなは日曜日は楽しいというけれど
私達は日曜日は地獄だ」と、涙を流して言いました。
兵隊が十人も十五人も軍靴をぶらさげて廊下に並んで順番を待ってるというわけです。
・・・・。
19か20歳くらいの若い女の人が・・・。
****その人たちは言いました、「朝鮮が陸続きだったら、逃げてでも帰りたい、お母さんのところに帰り
たい」
****病気をしたらもうおしまいち。ご飯も食べさせてもらわれん。・・・・****亡くなった方はいくらでもおります。
大連の慰安所のことを話します。
全羅南道から来た朝鮮人慰安婦「ハナコ」さん。
私は賄い夫をしていたので、こうりゃんの握り飯を2つか3つつくってもっていってやったとです。
その握り飯を食べる時の顔が、今でも目に浮かびます。
それだけ朝鮮の女の人は食べるものも十分にもらえず、人間扱いされとらんかったです。
それやけん、よく「帰りたい」という
再掲ですが。
「従軍慰安婦と歴史認識」から
*中里さん(元海軍従軍看護婦)
・ ・・・。
私は海南島の三亜(さんや)と言うところでこの体験をいたしました。
中国の一番南端のベトナムに近いところにある、南シナ海の島です。
そこに海軍病院があったのです。
海軍病院では毎週一回、梅毒の検診をやっていました。
トラック四台、一台二十五人乗りですから、百名の「慰安婦」が検診に来ました。
圧倒的に朝鮮人の方が多かったのですが、日本人もわずかに乗っておられましたし、
台湾人の方も一台くらいいましたでしょうか。
梅毒には、一期から三期まであるんですけど、一番恐いのは、外に出る軟性下疳
(なんせいげかん)とか淋病です。
・ ・・・。
こういう症状をもった「慰安婦」さんが何人かいらしたのです。
自分と同じくらいの年の子がそういう境遇にあるのを見ると・・・・。
「痛みますか?」と聞くと泣くんです。
涙をぽろぽろとこぼして「アイゴー、アイゴー」というんです。
アイゴーという言葉は、朝鮮語では「哀しい」と言う言葉なんだそうです。
・ ・・・・。
もう、52年たちましたけれども、まだ忘れられない。
もう生きていないと思いますけど・・・。
その子たちが、来るたびに、ひどくなっているの。
一日に二十人から三十人、そういうひどい症状を持っているのに、
****日本の兵隊と交渉を持たなければ殴られる状況なんだと言うこと・・・。
日本人の慰安婦は「海南荘」と言う木造の建物で、将校用。
朝鮮人、台湾人慰安婦は「バナナや、やしの葉っぱ」で作られた、スコールが避けられない粗末な建物。
・・・・。
私の名前は戸田と言ったんですけど「トダー」って怒鳴るのよ。
朝鮮の人たちは・・・よくわからなかったのよね、発音が。
・・「兵隊を連れてくるな」と言うようなことを私達に盛んに激しい口調で、怒鳴られた
というのは覚えています。
・・・・
****貴重な医薬品は朝鮮人慰安婦には絶対に使いませんでした。
性病に罹った兵隊には打っていました。
*荒木さん(元軍夫)
私は戦時中に陸軍の御用船に賄い夫として乗っていました。
戦時中、門司から15,6隻で船団を組んでサイゴン、タイ国に向けて出発しました。
途中、台湾の高雄に立ち寄り、水や食料などを補給し、翌朝船が出たわけです。
ところがアメリカの潜水艦が待ち構えていて、何隻
かの船はやられてしまいました。
船はバラバラに逃げましたが、又よってきました。海面に浮かんでいる人を助けるためです。
その時に、何人かの女の人も浮かんでいたのです。
兵隊も浮いている。軍属も浮いていました。
それで、無事だった私の船から、タラップを降ろして、助けようとしたのです。
その時、上官が言いました。
「兵隊を先に助けろ」と。それから軍属を助ける。そして言葉は悪いが耐えてください。
****「朝鮮ピーは、朝鮮に行けばなんぼでもおるから、助けんでもいいち」
上官はそう命令したのです。
海面に浮いていた女性は「朝鮮人の慰安婦」だったのです。
でも上官は助けるなと命令しました(涙声になる)。
本当に涙が出ました。
今でもその時のお詫びの気持ちで、自分の部屋に40年も朝鮮の人形を飾っております。
手をふって「助けてくれ、助けてくれ」という女の人を置き去りにした時のあのことが、74歳になった今も忘れ切れません。
それから、これはサイゴンとタイの話です。
そこにも慰安所があり、朝鮮の女の人は私のことを「アラキィ、みんなは日曜日は楽しいというけれど
私達は日曜日は地獄だ」と、涙を流して言いました。
兵隊が十人も十五人も軍靴をぶらさげて廊下に並んで順番を待ってるというわけです。
・・・・。
19か20歳くらいの若い女の人が・・・。
****その人たちは言いました、「朝鮮が陸続きだったら、逃げてでも帰りたい、お母さんのところに帰り
たい」
****病気をしたらもうおしまいち。ご飯も食べさせてもらわれん。・・・・****亡くなった方はいくらでもおります。
大連の慰安所のことを話します。
全羅南道から来た朝鮮人慰安婦「ハナコ」さん。
私は賄い夫をしていたので、こうりゃんの握り飯を2つか3つつくってもっていってやったとです。
その握り飯を食べる時の顔が、今でも目に浮かびます。
それだけ朝鮮の女の人は食べるものも十分にもらえず、人間扱いされとらんかったです。
それやけん、よく「帰りたい」という
これは メッセージ 1 (yuukouheiwa さん)への返信です.