よろしかったら
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2003/07/11 20:45 投稿番号: [2552 / 29399]
>(しかし、今でもこんなものが管理売春を公然と認めている日本では続けられてるのですよね。)
ここが、ちょっとよく分かりませんが。
「途上国から、就職詐欺で、売春強要」はあるようですね。
>この頃は、水戸学の開祖、光圀のように"領民(大東亜の盟友)こそ国の宝"との考える人物も死に絶え、
恥知らずで小賢しいばかりの百姓の成り上がり者が大手を振るっていたという事でしょうね。
しかし、孫文・魯迅が日本に留学し、水戸学(朱子学)に触れたとき感動を覚えたそうですが、
ここら辺のお話をもっと、詳しくお願いできますか?よろしかったら。
興味津々・・・。
>肝心の日本人は百姓の成り上がり者ばかりで、その精神性は理解できなかったということでしょう
私は「百姓」と言う言葉に尊敬の念を抱いてるので、ちょっと、引っかかります。
この場合の「百姓」とは、いわゆる「公民」国民の事ですか?
私は、↓ このような「百姓」解釈をしています。
現代社会は分業化されていて、それぞれがスペシャリストとしてのみ生かされています。衣食住は全部、外部化されてしまったわけです。これでは生きる実感をどこに求めればよいのか。元来人間は、トータルマンであるべきで、私はそうありたいと思っているのです。
百姓という言葉の百はたくさん、姓はかばねで、職業を表しています。大伴さん、中臣さん、カーターさん、カーペンターさん、私の姓の進士もそうですが、洋の東西を問わず昔は姓が職業を表していました。職業は、その分野の能力。百姓とは、たくさんの能力がないとできない仕事だったわけです。
実際、江戸時代の百姓を見ても実に多才なことがわかります。鎌を自分の手の長さに合わせるには物理学の知識がいるし、濁酒や納豆を作るのはバイオでしょう。種蒔きや収穫のタイミングなどが記された農書も当時の百姓自身が書いています。その他村祭りの世話役をしたり、農村歌舞伎を演じたり、土俵を作って相撲もしている。科学者、エコノミスト、コミニュティリーダー、ボランティア、アーティスト、スポーツマン。人間として生まれ持った能力のすべてを発揮して生きられたのが百姓でした。
それに比べて、現代のサラリーマンはせいざい二姓か三姓でしょう。分業社会では仕方がない。しかしこれは、本来人間がもっている多才な能力の大部分を放棄しているという見方もできるわけです。
人間は本来、もって生まれた百の能力を思い切って発揮できてこそ人生を全うする喜びを手にできるのです。今、ログハウスを自分で作ったり、クラインガルテン(市民農園)で野菜を作ったりする人が増えています。これは何とか本来の人間に回帰しようとする、本来的人間への回復作用ではないでしょうか。
(東京農業大学学長の言葉より)
ここが、ちょっとよく分かりませんが。
「途上国から、就職詐欺で、売春強要」はあるようですね。
>この頃は、水戸学の開祖、光圀のように"領民(大東亜の盟友)こそ国の宝"との考える人物も死に絶え、
恥知らずで小賢しいばかりの百姓の成り上がり者が大手を振るっていたという事でしょうね。
しかし、孫文・魯迅が日本に留学し、水戸学(朱子学)に触れたとき感動を覚えたそうですが、
ここら辺のお話をもっと、詳しくお願いできますか?よろしかったら。
興味津々・・・。
>肝心の日本人は百姓の成り上がり者ばかりで、その精神性は理解できなかったということでしょう
私は「百姓」と言う言葉に尊敬の念を抱いてるので、ちょっと、引っかかります。
この場合の「百姓」とは、いわゆる「公民」国民の事ですか?
私は、↓ このような「百姓」解釈をしています。
現代社会は分業化されていて、それぞれがスペシャリストとしてのみ生かされています。衣食住は全部、外部化されてしまったわけです。これでは生きる実感をどこに求めればよいのか。元来人間は、トータルマンであるべきで、私はそうありたいと思っているのです。
百姓という言葉の百はたくさん、姓はかばねで、職業を表しています。大伴さん、中臣さん、カーターさん、カーペンターさん、私の姓の進士もそうですが、洋の東西を問わず昔は姓が職業を表していました。職業は、その分野の能力。百姓とは、たくさんの能力がないとできない仕事だったわけです。
実際、江戸時代の百姓を見ても実に多才なことがわかります。鎌を自分の手の長さに合わせるには物理学の知識がいるし、濁酒や納豆を作るのはバイオでしょう。種蒔きや収穫のタイミングなどが記された農書も当時の百姓自身が書いています。その他村祭りの世話役をしたり、農村歌舞伎を演じたり、土俵を作って相撲もしている。科学者、エコノミスト、コミニュティリーダー、ボランティア、アーティスト、スポーツマン。人間として生まれ持った能力のすべてを発揮して生きられたのが百姓でした。
それに比べて、現代のサラリーマンはせいざい二姓か三姓でしょう。分業社会では仕方がない。しかしこれは、本来人間がもっている多才な能力の大部分を放棄しているという見方もできるわけです。
人間は本来、もって生まれた百の能力を思い切って発揮できてこそ人生を全うする喜びを手にできるのです。今、ログハウスを自分で作ったり、クラインガルテン(市民農園)で野菜を作ったりする人が増えています。これは何とか本来の人間に回帰しようとする、本来的人間への回復作用ではないでしょうか。
(東京農業大学学長の言葉より)
これは メッセージ 2546 (YellowFlute さん)への返信です.