Re: >簡単に反論はできませんが、
投稿者: maximirion 投稿日時: 2010/08/24 23:34 投稿番号: [21880 / 29399]
>逆に民主主義が高度に発達した社会であればこそ、何の後ろめたさもなく多数派が少数派を一方的に駆逐するという事態が容易に起こりうるとさえ言えます。
>冷たいようですけれども、私はそれが当然と考えています。
馬鹿女は、「多数決」と「民主〔国民主権〕」との区別がついていない。
民主とは、主権国家を構成する国民が当事者となって社会契約を締結し、その内容は、「衡平の原理」に適っていなければならない。
「理〔ことわり〕」が「任意」より優越するのであって、
「理〔ことわり〕」に反しない限りに於いて、社会契約の当事者の「任意」による「合意」により、契約内容を定めることができるにすぎない。
「理に適った少数派」と「理に適わない多数派」では、「理に適った少数派」が優越する。
「理」を「解す」ことができない愚か者が、寄り集まって多数派を形成し、戯言を契約内容として定めるのが愚民主主義♪>
あなたは、対象の投稿文の文章面を追うだけで、相手の意図を読み解いてなのでしょう。
だから、反論が的外れです。
彼女の言のあらゆる面が由とは言い難いですが、”簡単に反論できます”という前に相手の投稿内容を良く理解しましょうね。
あなたが書いているようなことは百も承知の上でこう書かれていることは多くの人には明快なはずです。
「逆に民主主義が高度に発達した社会であればこそ、何の後ろめたさもなく多数派が少数派を一方的に駆逐するという事態が容易に起こりうるとさえ言えます。」
つまりは、「衡平の原理」が正しく認識され扱われ続ける民主主義社会になるか、少数が圧殺されて衆隅による民主主義社会になるかの確立的な話だ。
(愚民主主義などと書いてるようでは、お里が知れるよw。)
ここに出てくる「民主主義が高度に発達」とある際の”高度”は、レベルが高い低いという話ではなく、社会に占める民主主義の度合いの高さだ。
民主主義以外の要素が社会の意思決定要素の大半を占めれば占める程に、「理に適った少数派」が社会認知される確率が減る可能性を彼女は言っているのだよ。
反論の観点としては、社会に於ける民主主義の正当性の度合いが高まっても必ずしも少数派が圧殺されるものではないという点に於いてだ。
それは、彼女が日頃思う事象の中に証明されている。
戦後に何故祝祭日に国旗を掲げる家々が減少し続け、そういう家が無くなって久しいのかとか、弱者保護を言い募る大声に挫けて借地借家法が財政権を侵害する法律となり下がっても自己認識すらない政府が存続し続けるとか、国歌国旗を義務教育現場から排斥するのが自由平等な民主主義社会かのような認識の人間が蔓延って校長を自殺に追い込んだりするとかね。
まあ、どう云い繕った処で、様々な事象に対して「衡平の原理」が具体的に共通認識されることの方が稀であろう。
稀だからこそ、民主主義なる概念が存在するわけだし、議論の末の採択を「衡平の原理」と暫定してことを処理するを是としているのだよね。
民主主義の基本は、その民主主義社会の構成員であれば万民がその公民であるということだ。
公民であってこそ、その範疇で自由と平等と個人の権利が保障され保障する義務と責任を同時に負うのだよ。
他者の侵害を伴う個人の権利の行使に対しては、賠償を持って償うというのが基本的な「平衡の原理」でもある。
「理に適った少数」と称されるものが、果たして本当に「理に適わない多数」優越できるのかという具体的な疑念をあなたが拭い去る反論ができたとき、初めて「反論できました」となるのだね。
>冷たいようですけれども、私はそれが当然と考えています。
馬鹿女は、「多数決」と「民主〔国民主権〕」との区別がついていない。
民主とは、主権国家を構成する国民が当事者となって社会契約を締結し、その内容は、「衡平の原理」に適っていなければならない。
「理〔ことわり〕」が「任意」より優越するのであって、
「理〔ことわり〕」に反しない限りに於いて、社会契約の当事者の「任意」による「合意」により、契約内容を定めることができるにすぎない。
「理に適った少数派」と「理に適わない多数派」では、「理に適った少数派」が優越する。
「理」を「解す」ことができない愚か者が、寄り集まって多数派を形成し、戯言を契約内容として定めるのが愚民主主義♪>
あなたは、対象の投稿文の文章面を追うだけで、相手の意図を読み解いてなのでしょう。
だから、反論が的外れです。
彼女の言のあらゆる面が由とは言い難いですが、”簡単に反論できます”という前に相手の投稿内容を良く理解しましょうね。
あなたが書いているようなことは百も承知の上でこう書かれていることは多くの人には明快なはずです。
「逆に民主主義が高度に発達した社会であればこそ、何の後ろめたさもなく多数派が少数派を一方的に駆逐するという事態が容易に起こりうるとさえ言えます。」
つまりは、「衡平の原理」が正しく認識され扱われ続ける民主主義社会になるか、少数が圧殺されて衆隅による民主主義社会になるかの確立的な話だ。
(愚民主主義などと書いてるようでは、お里が知れるよw。)
ここに出てくる「民主主義が高度に発達」とある際の”高度”は、レベルが高い低いという話ではなく、社会に占める民主主義の度合いの高さだ。
民主主義以外の要素が社会の意思決定要素の大半を占めれば占める程に、「理に適った少数派」が社会認知される確率が減る可能性を彼女は言っているのだよ。
反論の観点としては、社会に於ける民主主義の正当性の度合いが高まっても必ずしも少数派が圧殺されるものではないという点に於いてだ。
それは、彼女が日頃思う事象の中に証明されている。
戦後に何故祝祭日に国旗を掲げる家々が減少し続け、そういう家が無くなって久しいのかとか、弱者保護を言い募る大声に挫けて借地借家法が財政権を侵害する法律となり下がっても自己認識すらない政府が存続し続けるとか、国歌国旗を義務教育現場から排斥するのが自由平等な民主主義社会かのような認識の人間が蔓延って校長を自殺に追い込んだりするとかね。
まあ、どう云い繕った処で、様々な事象に対して「衡平の原理」が具体的に共通認識されることの方が稀であろう。
稀だからこそ、民主主義なる概念が存在するわけだし、議論の末の採択を「衡平の原理」と暫定してことを処理するを是としているのだよね。
民主主義の基本は、その民主主義社会の構成員であれば万民がその公民であるということだ。
公民であってこそ、その範疇で自由と平等と個人の権利が保障され保障する義務と責任を同時に負うのだよ。
他者の侵害を伴う個人の権利の行使に対しては、賠償を持って償うというのが基本的な「平衡の原理」でもある。
「理に適った少数」と称されるものが、果たして本当に「理に適わない多数」優越できるのかという具体的な疑念をあなたが拭い去る反論ができたとき、初めて「反論できました」となるのだね。
これは メッセージ 21864 (t_ohtaguro_2 さん)への返信です.