“民主主義のコスト”
投稿者: steffi_10121976 投稿日時: 2010/08/22 16:36 投稿番号: [21848 / 29399]
アンソニーさん、レスありがとうございました。
残暑のお見舞いを申しあげますとともに、お返事が遅くなりましたことをお詫び申しあげます。
●>でも、「国家なくして個人なし」という考えには違和感があります。それは、国家のためには個人は犠牲になってもかまわないという全体主義思想につながる危険があるからです。
「個人」と「国家」とを相対立する概念、つまり利益相反関係にあると位置づけるならば、そのようなご意見には説得力がありますし、私自身もかつてはそう思っていた時期もありました。
けれども現在の日本のように、民主主義が(形式的な面はあるにせよ)一定の水準に発達した社会においては、「国家」は「個人」の利益共同体であって、その執行する政策は国民つまり「個人」の利益保護あるいは利益追求手段であるという考え方もじゅうぶんに成り立つのではないでしょうか?
もちろん万人が100パーセント満足する政策などこの世に存在しないのですから、個々の政策においては不利益をこうむる「個人」は必ず出てくるでしょう。
しかし、「国家」の意思決定機能を担うのは主権者たる国民という大原則が健全に機能しているかぎり、「国家」が最大公約数的な「個人」と利益相反関係になるという局面は、理屈のうえでは考えにくいと思います。
そしてアンソニーさんのおっしゃる、「国家のためには個人は犠牲になってもかまわないという全体主義思想につながる危険」は、国家政体の態様、政権の“民主度”にかかわらず常に存在するのであって、逆に民主主義が高度に発達した社会であればこそ、何の後ろめたさもなく多数派が少数派を一方的に駆逐するという事態が容易に起こりうるとさえ言えます。
冷たいようですけれども、私はそれが当然と考えています。
なぜならば逆に少数意見が多数意見を駆逐するとしたら、それこそファシズムにほかならないからです。
民主主義が多くの重大な欠陥を内包した政治システムであったとしても、現状人間の英知をもってしてはこれに代替しうる制度を見出しえない以上、われわれはあくまでも多数意見によって国家を動かしていかなければなりません。
そしてそのプロセスの中でもし、「国家のためには個人は犠牲になってもかまわない」という政策が主権者の多数意思によって決定され、私がその犠牲になる立場だったとしても、私はそれを甘受することでしょう。
それが“民主主義のコスト”であり、それなくして民主主義は成立しえないからです。
●>そのスイスのきわめて厳格な社会システムも、けっして何も無いところからいきなり存在したわけじゃなく、ある時代のスイス人が作ったわけで、その当時個人の一般意思としての集合の特殊意思がスイスという国家を形作ったといえると思います。
われわれが「ヨーロッパ」という言葉から連想するいくつかの観光資源の中で、他の(ほとんど)すべてのヨーロッパ諸国には存在して、スイスにだけ存在しないものがひとつだけあります。
何だかおわかりになりますか?
もしおわかりにならなければ、正解は次の機会に申しあげますけれども、まさに「それ」が存在しない事実こそが、現在に至るまでこの国のアイデンティティーを決定づけているといえます。
(つづく)
残暑のお見舞いを申しあげますとともに、お返事が遅くなりましたことをお詫び申しあげます。
●>でも、「国家なくして個人なし」という考えには違和感があります。それは、国家のためには個人は犠牲になってもかまわないという全体主義思想につながる危険があるからです。
「個人」と「国家」とを相対立する概念、つまり利益相反関係にあると位置づけるならば、そのようなご意見には説得力がありますし、私自身もかつてはそう思っていた時期もありました。
けれども現在の日本のように、民主主義が(形式的な面はあるにせよ)一定の水準に発達した社会においては、「国家」は「個人」の利益共同体であって、その執行する政策は国民つまり「個人」の利益保護あるいは利益追求手段であるという考え方もじゅうぶんに成り立つのではないでしょうか?
もちろん万人が100パーセント満足する政策などこの世に存在しないのですから、個々の政策においては不利益をこうむる「個人」は必ず出てくるでしょう。
しかし、「国家」の意思決定機能を担うのは主権者たる国民という大原則が健全に機能しているかぎり、「国家」が最大公約数的な「個人」と利益相反関係になるという局面は、理屈のうえでは考えにくいと思います。
そしてアンソニーさんのおっしゃる、「国家のためには個人は犠牲になってもかまわないという全体主義思想につながる危険」は、国家政体の態様、政権の“民主度”にかかわらず常に存在するのであって、逆に民主主義が高度に発達した社会であればこそ、何の後ろめたさもなく多数派が少数派を一方的に駆逐するという事態が容易に起こりうるとさえ言えます。
冷たいようですけれども、私はそれが当然と考えています。
なぜならば逆に少数意見が多数意見を駆逐するとしたら、それこそファシズムにほかならないからです。
民主主義が多くの重大な欠陥を内包した政治システムであったとしても、現状人間の英知をもってしてはこれに代替しうる制度を見出しえない以上、われわれはあくまでも多数意見によって国家を動かしていかなければなりません。
そしてそのプロセスの中でもし、「国家のためには個人は犠牲になってもかまわない」という政策が主権者の多数意思によって決定され、私がその犠牲になる立場だったとしても、私はそれを甘受することでしょう。
それが“民主主義のコスト”であり、それなくして民主主義は成立しえないからです。
●>そのスイスのきわめて厳格な社会システムも、けっして何も無いところからいきなり存在したわけじゃなく、ある時代のスイス人が作ったわけで、その当時個人の一般意思としての集合の特殊意思がスイスという国家を形作ったといえると思います。
われわれが「ヨーロッパ」という言葉から連想するいくつかの観光資源の中で、他の(ほとんど)すべてのヨーロッパ諸国には存在して、スイスにだけ存在しないものがひとつだけあります。
何だかおわかりになりますか?
もしおわかりにならなければ、正解は次の機会に申しあげますけれども、まさに「それ」が存在しない事実こそが、現在に至るまでこの国のアイデンティティーを決定づけているといえます。
(つづく)
これは メッセージ 21809 (anthony_749 さん)への返信です.