Re: 映画「ラストエンペラー」1
投稿者: mokneybrain123 投稿日時: 2010/01/04 19:03 投稿番号: [21448 / 29399]
>ベルナルド・ベルトルッチの芸術を無教養とおっしゃる貴方は、どのような教養をお持ちですか?
別にたいした教養はありませんが、ベルトルッチが浅薄なバカヤロウであることぐらいはわかります。以下参照。
>ホテルで待つこと3ヵ月。
ようやく溥儀の元を訪れた板垣征四郎は、関東軍のプランを溥儀に伝えました。
板垣の説明をいらいらしながら聞いていた溥儀は、板垣がカバンの中から満蒙人民宣言書と五色の満州国国旗を取り出したのを見て、『怒りで胸もはりさけそうに』なったのです。
ふるえる手でそれを押しのけた溥儀は、それが大清帝国だとでもいうのか、と板垣に詰問します。
すると板垣は 『こちろんこれは大清帝国の復辟ではありません。一つの新しい国です。東北行政委員会が決議し、一致して閣下を新国家の元首、すなわち執政に推戴しております』 と答えるのです。この答えに溥儀は怒り心頭に達します。陛下ではなく、閣下と呼ばれたのは生まれて初めてのことでした。
溥儀 名正からざれば、言、したわず。言したがわざれば、事、成らずです(論語より)。満州の人心の向うところは私個人ではなくて、大清の皇帝なのです。もしこの呼称を取り消せば、満州の人心は必ず失われます。この問題は関東軍に再考慮してもらわなければなりません。
板垣 満州の人民は閣下を新国家の元首に推戴しております。それが人心の帰趨であり、また、関東軍の同意するところであります。
溥儀 だが日本も天皇制の帝国ではありませんか。なぜ関東軍は共和制の建設に同意するのですか
板垣 もし閣下が共和制が妥当でないとお考えなら共和という文字は用いません。これは共和制ではなくて、執政制なのです。
溥儀 他のことはともかく、この執政制だけは受け入れるわけにはいきません。皇帝の呼称は私の祖宗が残したものです。もし私がそれを取り消したならば不忠不幸です。
板垣 宣統帝が大清帝国の皇帝であられることは、明らかなことです。将来、議会が成立いたしましてから、かならず帝制回復の憲法を可決するものと信じます。
したがいまして現在の執政はあくまで過渡期の便法にすぎません。
溥儀 皇帝の称号はそもそも議会などから受けるものではありません
(1)東北行政委員とは、満州国建国プロジェクトです。
(2)宣統帝とは、清王朝を退位した溥儀のことです。
日本の感情を害してはならない・・・周囲の諌言もあって、結局溥儀は、1年たっても帝制ができなかったら退位するという条件で、執政の座につくことを承諾したのです。関東軍にとって帝政にこだわり、清王朝復興を夢見る溥儀は笑止なことだったでしょう。
この時溥儀は26歳。この若さですでに彼は過去の遺物だったのです。これを書きながら、私は織田信長に祭り上げられた室町時代最後の将軍、足利義昭を思い浮かべています。ところが児島襄の『東京裁判』 にはまったく違うことが書いてあるのです。
皇帝溥儀は、板垣関東軍高級参謀の「脅迫」によって満州国執政に就任したというが、「脅迫」をうけたのは、むしろ、板垣参謀のほうであった。
皇帝溥儀は、帝位につくのでなければ出馬せぬ、と首肯した。日本側としては、溥儀皇帝の出現は、中国の清朝復活という印象を与え、反清朝意識の強い大部分の現地民を離反させる恐れがあると考えたが、他に適当な人物がいないため、やがて帝政を施行する約束で皇帝溥儀と妥協したのである。
さてどちらが真実なのか、今になっては知るすべはありません。
上記の板垣と溥儀の会話は、『わが半生]』 からの引用ですが、少なくとも、『わが半生』 が溥儀の自伝であり、背後に中国共産党が控えている以上、溥儀にとって、あるいは中国共産党にとって不利なことは書かないでしょうね。
後の東京裁判で証人として出廷した溥儀は、何かと言えば 『強要された』 、『恐ろしかった』 、『そんなことは知らない』 を繰り返しましたが、溥儀は脅されたどころか、自ら積極的に満州へ行き、 『1年後には皇帝になれる』 と大満悦だったのです。
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/china/karyu/karyu.htm
ベルトルッチが調べたのはせいぜい溥儀の自伝とかジョンソンの紫禁城とか東京裁判の記録とかくらいでしょう。それ以前にすでに、連合国によってでっちあげられたプロパガンダイメージ、当時の日本は、ナチまがいの一方的な侵略的軍国主義、世界制覇の野望の国家みたいな先入観をもっていたのでしょう。(つづく)
別にたいした教養はありませんが、ベルトルッチが浅薄なバカヤロウであることぐらいはわかります。以下参照。
>ホテルで待つこと3ヵ月。
ようやく溥儀の元を訪れた板垣征四郎は、関東軍のプランを溥儀に伝えました。
板垣の説明をいらいらしながら聞いていた溥儀は、板垣がカバンの中から満蒙人民宣言書と五色の満州国国旗を取り出したのを見て、『怒りで胸もはりさけそうに』なったのです。
ふるえる手でそれを押しのけた溥儀は、それが大清帝国だとでもいうのか、と板垣に詰問します。
すると板垣は 『こちろんこれは大清帝国の復辟ではありません。一つの新しい国です。東北行政委員会が決議し、一致して閣下を新国家の元首、すなわち執政に推戴しております』 と答えるのです。この答えに溥儀は怒り心頭に達します。陛下ではなく、閣下と呼ばれたのは生まれて初めてのことでした。
溥儀 名正からざれば、言、したわず。言したがわざれば、事、成らずです(論語より)。満州の人心の向うところは私個人ではなくて、大清の皇帝なのです。もしこの呼称を取り消せば、満州の人心は必ず失われます。この問題は関東軍に再考慮してもらわなければなりません。
板垣 満州の人民は閣下を新国家の元首に推戴しております。それが人心の帰趨であり、また、関東軍の同意するところであります。
溥儀 だが日本も天皇制の帝国ではありませんか。なぜ関東軍は共和制の建設に同意するのですか
板垣 もし閣下が共和制が妥当でないとお考えなら共和という文字は用いません。これは共和制ではなくて、執政制なのです。
溥儀 他のことはともかく、この執政制だけは受け入れるわけにはいきません。皇帝の呼称は私の祖宗が残したものです。もし私がそれを取り消したならば不忠不幸です。
板垣 宣統帝が大清帝国の皇帝であられることは、明らかなことです。将来、議会が成立いたしましてから、かならず帝制回復の憲法を可決するものと信じます。
したがいまして現在の執政はあくまで過渡期の便法にすぎません。
溥儀 皇帝の称号はそもそも議会などから受けるものではありません
(1)東北行政委員とは、満州国建国プロジェクトです。
(2)宣統帝とは、清王朝を退位した溥儀のことです。
日本の感情を害してはならない・・・周囲の諌言もあって、結局溥儀は、1年たっても帝制ができなかったら退位するという条件で、執政の座につくことを承諾したのです。関東軍にとって帝政にこだわり、清王朝復興を夢見る溥儀は笑止なことだったでしょう。
この時溥儀は26歳。この若さですでに彼は過去の遺物だったのです。これを書きながら、私は織田信長に祭り上げられた室町時代最後の将軍、足利義昭を思い浮かべています。ところが児島襄の『東京裁判』 にはまったく違うことが書いてあるのです。
皇帝溥儀は、板垣関東軍高級参謀の「脅迫」によって満州国執政に就任したというが、「脅迫」をうけたのは、むしろ、板垣参謀のほうであった。
皇帝溥儀は、帝位につくのでなければ出馬せぬ、と首肯した。日本側としては、溥儀皇帝の出現は、中国の清朝復活という印象を与え、反清朝意識の強い大部分の現地民を離反させる恐れがあると考えたが、他に適当な人物がいないため、やがて帝政を施行する約束で皇帝溥儀と妥協したのである。
さてどちらが真実なのか、今になっては知るすべはありません。
上記の板垣と溥儀の会話は、『わが半生]』 からの引用ですが、少なくとも、『わが半生』 が溥儀の自伝であり、背後に中国共産党が控えている以上、溥儀にとって、あるいは中国共産党にとって不利なことは書かないでしょうね。
後の東京裁判で証人として出廷した溥儀は、何かと言えば 『強要された』 、『恐ろしかった』 、『そんなことは知らない』 を繰り返しましたが、溥儀は脅されたどころか、自ら積極的に満州へ行き、 『1年後には皇帝になれる』 と大満悦だったのです。
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/china/karyu/karyu.htm
ベルトルッチが調べたのはせいぜい溥儀の自伝とかジョンソンの紫禁城とか東京裁判の記録とかくらいでしょう。それ以前にすでに、連合国によってでっちあげられたプロパガンダイメージ、当時の日本は、ナチまがいの一方的な侵略的軍国主義、世界制覇の野望の国家みたいな先入観をもっていたのでしょう。(つづく)
これは メッセージ 21430 (anthony_749 さん)への返信です.