チベットはいかにして侵略されたか 2
投稿者: unkai1956 投稿日時: 2006/07/20 18:39 投稿番号: [12476 / 29399]
しかし、これらの反論はチベット人を大虐殺した事実の反論には到底なり得ておらず、その主張の事実の根拠すら提示されていない。
更に中国軍はボタラ宮殿、ジョカン寺院などを砲撃し、数千の民衆を虐殺、この様な度重なる弾圧により、ダライ・ラマのいる印国へ大勢のチベット人が向かった。
だがその多くは捕まり、強姦・殺害され、逃げた人の大半も寒さと飢えと病に倒れた。この様な影響を受け、ダライ・ラマは印国の援助を得て亡命政府を樹立し、10万人にのぼる難民の居留地とチベット文化を伝承する為の学校の整理を進めた。
その頃、中共は「民主改革」という名の新たな大虐殺を開始し、チベットの民衆を幾つかの階層に分け、「富裕階級」は撲滅すべき階級で、「下層階級」でも処刑に反対すれば同罪とした。そして、「密告制度」と「人民裁判」が導入され、人の罪を密告しなければ自分が密告されるという相互不信の状態を作り出し、家族に於いては子供は両親の、両親は子供の罪を糾弾せねばならなくなり、民衆の新しいリーダーとされた乞食達は、「富裕階級」を次々と摘発した。
そうして連行された人々は特別人民集会に呼び出され、前もって中国側が作成した「罪状」に基づき、「犯罪者」として告発された。
集会に参加した人々は、その告発通りに非難し、殴り、唾を吐きかけ、髪を引っ張り、数々の辱めを行なわなければならない。
その模様を中国人担当者が詳細にメモし、最も激しく非難した者は「進歩分子」と評価され、非難が甘い者は批判される。同情を寄せたり、弁護した者は「犯罪者」と同じ運命を辿った。
その「犯罪者」達は公開処刑、或いは飢餓状態に置かれ、苦役の末に死亡、又は自殺に追い込まれた。「犯罪者」とされた人々の多くは、チベット仏教を放棄しなかったという理由が「罪状」だった。
鞭打たれ、はりつけにされ生きながら焼かれ、生きたまま解剖され、生き埋めにされ、腸を取り除かれ、首を切られたりして殺害された。この様な殺人行為は、いずれも公衆の面前でなされた。犠牲者の友人、隣人、同じ村の人々は、それを見物する様に強制され、犠牲者は自分の家族や知人が見ているその目の前で殺されたのである。ある者は目に釘を打ち込まれて殺された。ある者は後頭部を打ち抜かれ、脳味噌が飛び散り、飛び散った血と肉塊を見た中国人達は「花が咲いた様だ。」と言った。
これは メッセージ 12469 (syoumenkyousi さん)への返信です.
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