チベットはどのように侵略されたか 1
投稿者: unkai1956 投稿日時: 2006/07/20 18:34 投稿番号: [12475 / 29399]
戦後の1947年、印国のニューデリーで開値された第一回亜細亜諸国会議にもチベットは一国家として参加、チベット政府発行のパスポートを英国や米国ほか各国が承認しており、名実ともに独立国であった。
毛沢東も同年にチベット独立を認める発言をしていたが、1949年、国民党を大陸から追い払い、中共による中華人民共和国が成立するや中共は北京放送を通じ、次の様に宣言した。
「チベットは中華人民共和国の一部に他ならず、人民解放軍はチベット人民を外国の帝国主義の手から解放する為に、チベットに進駐する。」
これに対し、チベット政府は強く抗議し、次の声明を発表した。
「チベットが、かつて中国の一部だった事は一度も無い。我が国を支配する外国勢力などは存在せず、従って解放される必要は全く無い。」
当時のチベットには、先進国の人間は6名しかおらず、「外国の帝国主義」というものは存在する筈も無かったのが現実である。 しかも、中共はチベットが元朝や清朝の一員だったから中国の一部だと主張したが、これはとんでもない詭弁であり、元も清も漢民族が支配した中華帝国ではなく、元はモンゴル人、清は満州人の帝国であり、現在の中共の漢民族はチベットとのつながりは無いのである。そして、元や清の皇帝は、チベット仏教に帰依していたので、言うなれば、「お寺と檀家」としての関係があったのであり、この意味からすれば、むしろ中国の方がチベットの一員だったと言えるのではないだろうか。
そして、中共は自民族の移民や旧体制下の朝頁の事実を以って、今も台湾・沖縄を中国領だと主張している。
中共はチベットに対する「解放宣言」を行なった後、空気の薄いチベットを攻める為、軍を標高1000メートルの場所で戦闘訓練させ、それに慣れると2000メートルに、更に3000メートル、4000メートルと高度を上げて訓練させた。
そして、運命の1950年10月、「人民解放軍」はチベットに侵攻したのである。侵略は始まった。平和を愛好し、軍隊や武器の近代化が遅れていた8000人のチベット軍は壊滅。チベットを独立国として幾つもの条約を交わしていた英国や印国、そして国際連合もこの軍事侵攻に対応出来ず、結
局は黙認する形となってしまった。
1951年、中共はチベット政府に対し、「17箇条協定」を押し付け、これによりチベットの外交権は奪われ、中国軍に占領されてしまったのである。
その後、毛沢東はダライ・ラマ14世を北京に招き、会談を重ねたが、ダライ・ラマが帰国する前日の最後の会見で、毛沢東は「宗教は毒だ」発言をし、心の芯まで宗教的存在であるダライ・ラマは、この発言を聞くや、激しい嵐の様な感情が額に出るのを感じ、毛主席に対して非常な恐れを抱いたと言う。
又、大量の「解放軍」の占領で「餓死」という言葉すら無かったチベットは歴史上初めての食料危機に見舞われ、道路建設に強制連行された数千人のチベット人が死亡、更に中共は宗教国チベットから宗教を消し去ろうと様々な圧政を加えていた。
この様な事から、チベットの抵抗運動は全国的に拡大し、ゲリラ戦で解放軍に打撃を与え、1959年3月首都ラサで民衆がノルプリンカ宮殿を取り囲み、最大のデモを行う。ラサ決起である。
これに対し、中国軍は同年3月20日、「血塗られた金曜日」と呼ばれる大虐殺を始める。
民衆と宮殿への集中砲火は41時間続き、その後の砲撃は4日間に及び、何万という民衆が虐殺された。中国軍は、この機に乗じ、ダライ・ラマを暗殺しようとしたが、ダライ・ラマはチベットを脱出、印国へ亡命し、その地で中共の非道を訴える声明を発表した。
それに対して中国新華社通信は、その声明は「誘拐」されたダライ・ラマが「反逆者」に強制されたものだと主張。チベット国民の蜂起は「反動的上層階級一味」によって画策されたものであると反論した。
毛沢東も同年にチベット独立を認める発言をしていたが、1949年、国民党を大陸から追い払い、中共による中華人民共和国が成立するや中共は北京放送を通じ、次の様に宣言した。
「チベットは中華人民共和国の一部に他ならず、人民解放軍はチベット人民を外国の帝国主義の手から解放する為に、チベットに進駐する。」
これに対し、チベット政府は強く抗議し、次の声明を発表した。
「チベットが、かつて中国の一部だった事は一度も無い。我が国を支配する外国勢力などは存在せず、従って解放される必要は全く無い。」
当時のチベットには、先進国の人間は6名しかおらず、「外国の帝国主義」というものは存在する筈も無かったのが現実である。 しかも、中共はチベットが元朝や清朝の一員だったから中国の一部だと主張したが、これはとんでもない詭弁であり、元も清も漢民族が支配した中華帝国ではなく、元はモンゴル人、清は満州人の帝国であり、現在の中共の漢民族はチベットとのつながりは無いのである。そして、元や清の皇帝は、チベット仏教に帰依していたので、言うなれば、「お寺と檀家」としての関係があったのであり、この意味からすれば、むしろ中国の方がチベットの一員だったと言えるのではないだろうか。
そして、中共は自民族の移民や旧体制下の朝頁の事実を以って、今も台湾・沖縄を中国領だと主張している。
中共はチベットに対する「解放宣言」を行なった後、空気の薄いチベットを攻める為、軍を標高1000メートルの場所で戦闘訓練させ、それに慣れると2000メートルに、更に3000メートル、4000メートルと高度を上げて訓練させた。
そして、運命の1950年10月、「人民解放軍」はチベットに侵攻したのである。侵略は始まった。平和を愛好し、軍隊や武器の近代化が遅れていた8000人のチベット軍は壊滅。チベットを独立国として幾つもの条約を交わしていた英国や印国、そして国際連合もこの軍事侵攻に対応出来ず、結
局は黙認する形となってしまった。
1951年、中共はチベット政府に対し、「17箇条協定」を押し付け、これによりチベットの外交権は奪われ、中国軍に占領されてしまったのである。
その後、毛沢東はダライ・ラマ14世を北京に招き、会談を重ねたが、ダライ・ラマが帰国する前日の最後の会見で、毛沢東は「宗教は毒だ」発言をし、心の芯まで宗教的存在であるダライ・ラマは、この発言を聞くや、激しい嵐の様な感情が額に出るのを感じ、毛主席に対して非常な恐れを抱いたと言う。
又、大量の「解放軍」の占領で「餓死」という言葉すら無かったチベットは歴史上初めての食料危機に見舞われ、道路建設に強制連行された数千人のチベット人が死亡、更に中共は宗教国チベットから宗教を消し去ろうと様々な圧政を加えていた。
この様な事から、チベットの抵抗運動は全国的に拡大し、ゲリラ戦で解放軍に打撃を与え、1959年3月首都ラサで民衆がノルプリンカ宮殿を取り囲み、最大のデモを行う。ラサ決起である。
これに対し、中国軍は同年3月20日、「血塗られた金曜日」と呼ばれる大虐殺を始める。
民衆と宮殿への集中砲火は41時間続き、その後の砲撃は4日間に及び、何万という民衆が虐殺された。中国軍は、この機に乗じ、ダライ・ラマを暗殺しようとしたが、ダライ・ラマはチベットを脱出、印国へ亡命し、その地で中共の非道を訴える声明を発表した。
それに対して中国新華社通信は、その声明は「誘拐」されたダライ・ラマが「反逆者」に強制されたものだと主張。チベット国民の蜂起は「反動的上層階級一味」によって画策されたものであると反論した。
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