南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行は事実

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

なんでかななんでだろー!

投稿者: mudagane 投稿日時: 2003/02/28 23:21 投稿番号: [1246 / 29399]
大東亞戦争論:真珠湾に至る日米の戦略転換

日米関係の断絶が形になって顕われたのは、1858年に締結された日米通商航海条約の破棄が行われた1939年からである。
その後、日本帝國政府は日中戦争での主敵である蒋介石の仏印ルートを遮断し、さらに日中戦争遂行のための資源を確保するために北部仏印に進駐した。1940年9月22日のことである。
その二日後に、第二次近衛内閣の松岡洋右外相は日独伊三國同盟を締結した。これは、当時欧州戦線で連勝していた独逸と同盟を組むことによって仏印進出の後ろ盾とすると共に、この頃急速に強圧的になっている米英に対する地位の向上を企図したものである。
しかしながらこの松岡外相の思惑は外れ、米國は日本に対して経済制裁を開始した。そこで近衛内閣は野村吉三郎海軍大将を駐米大使に任命し、米國との関係改善を図ろうとした。
1941年4月、松岡外相は日独伊にソヴィエトを加えた四カ國が提携して米英を亞細亞から手を引かせようと、日ソ中立条約を締結した。
しかしその二ヶ月後の6月に、独逸のソヴィエト侵攻によって独ソ戦争が勃発し、またもや松岡外相の目論見は脆くも崩れる。この時日本帝國政府は三國同盟の解消を検討するものの、結局堅持していく方針を採る。これにより、「日独伊 対 米英ソ」という構図が決定的になった。
その後、日米対立を回避したい日本は、野村吉三郎大使を米國に送り、コーデル・ハル國務長官と日米諒解案の締結を行おうとした。日米諒解案は、対立回避という日本の思惑と三國同盟を骨抜きにしようとする米國の思惑がかみ合い、満州國の承認、経済的圧力の緩和、日中戦争解決の糸口など日本にとって非常に都合の良い条件でまとまるかに見えた。しかし、ここで合衆國に強硬的で、独逸との交渉を重視していた松岡外相が横やりを入れ、日米諒解案は決裂した。
米國との衝突を避けたい日本政府は、國益にそぐわぬ行動をする外相松岡洋右を更迭し、第三次近衛内閣が誕生した。

同年7月28日、日本帝國政府は南部仏印進駐を行った。
戦略資源確保の前線基地の入手が主な目的であり、北部仏印進駐を行った時の主目的だった蒋介石政権に対する圧力という意味は、この時は既に二の次となっていた。日本帝國政府はこれにより亞米利加が強硬な態度をとることはないだろうと甘い見通しを持っていたが、その4日後の8月1日に、合衆國政府は日本人の資産凍結・対日全面禁輸を決定した。
ルーズヴェルト政権の合衆國政府は、対日全面禁輸によって日本の南進を抑止せんとしたが、逆にこれによって大日本帝國は、日米決戦に向けての準備を開始する。
11月26日、コーデル・ハル國務長官は実質の最後通帳であるハルノートを日本に通告した。これは日本にとって到底受け容れがたいものであったので日本帝國政府は代替案を提示したが、日米決戦を決意している合衆國は当然これを相手にしなかった。
そして、大日本帝國は真珠湾攻撃を決断した。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)