Re: 揚子江岸の死体
投稿者: nmwgip 投稿日時: 2006/03/22 23:54 投稿番号: [11590 / 29399]
> 村瀬写真では、多数の捕虜(後ろ手に縛られている)が殺されていることが証明されていますので、上記証言を裏付けていると言えるでしょう。
また出た。
何処が多数なのかな?
縛られている死体が村瀬写真から一体何人分確認されると言うのだね。
> では、その根拠を説明してもらいましょうか?
> なかなかの珍説かとお見受けられますが(笑)。
珍説ねぇ・・・
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
新井敏治氏(歩兵第38聯隊第2中隊軍曹)の証言
「12月19日か20日ごろ、清掃のため兵十数人を連れて下関の揚子江岸に行きました。入江に漂着した死体を押し流す作業でしたが、死体は三百以上ありました。この漂着死体は、十二月十二日、南京上流の蕪湖に進出したわが軍が、退却中の中国兵を砲撃した死体が漂着したものと思う。」
(偕行社『南京戦史』P161)
石松政敏氏(第二野戦高射砲司令部副官)、松川晴策氏(千葉鉄道第一聯隊下士官)は、下関埠頭で便衣兵三百〜千名内外が処分される現場を目撃し、石松氏は、これが「南京大虐殺の実体」だと言う。
石松政敏氏の述懐
「“南京大虐殺”の問題点とは、と聞かれますと、私は一言に要約すると便衣兵の処分であると申しあげたい。
南京入城時にはすでに難民区が設けられ、入城後は日本軍の指導により内部の秩序を維持し、この区域への軍人軍属の出入は、選抜された警備隊によって厳禁されていました。南京陥落とともに、中国軍兵が難民区に遁入しましたので、日本軍は治安維持会と協力して、難民には通行票を発行しました。
潜入した便衣兵は、憲兵隊によって摘発され、さらに軍法に照らし審査のうえ、下関で銃殺になったように承知しております。
(中略)
下関の多数の死体は機関銃によるものですが、南京攻略戦のさいの脱出者、残敵掃蕩戦による戦死者であり、捕虜ではありません。
巷間で伝えられる下関での殺害というのは、摘出した便衣兵処分ではないかと思います。入城後数日、下関で毎日、捕虜が処分されているという噂を聞き、また実際にその光景を見ました。
岸壁から数本の木製桟橋が、約十数メートル、江上に突き出ていました。そのたもとの岸壁には、両手を後ろ手にしばられた便衣兵が三〜四十人蹲っており、桟橋の先には一名の日本兵が待ち構えておりました。一人ずつ歩かせて桟橋の端に来た時、突き落として小銃で射殺していました。
三つの桟橋でやっていたように覚えていますが、当時浦口への渡船に任じていた工兵の生存者がおれば、その詳細が判ると思います。
そのうちに、下関で捕虜を殺しているという話がひろがり、外国公館からも問い合わせがあったとかで、下流に移されたと聞きました。
この便衣兵の処分が、“南京虐殺”と言われるものの実体ではないかと思います。」
(偕行社『南京戦史』P201〜202)
松川晴策氏の証言
「・・・私たちは鉄道聯隊なので、早速、下関駅の復旧業務に従事しました。十五〜十六日のことであったと思いますが、下関埠頭で便衣兵が一列にならばされ、兵士が次から次へと銃剣で突き刺したり、あるいは銃で撃っているのを見ました。その数は百や二百ではなかったが、千人とはいなかったことも事実です。何千、何万というような数では絶対にありません。入城式前と記憶していますから、十六日のことかも知れません。・・・」
(偕行社『南京戦史』P203〜204)
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珍説? 単に虐殺派がこれらの証言を都合よく無視しているだけだ。
> 多数の捕虜を殺害したという部分に関しては、飯沼日記、諸証言、村瀬写真で回答ずみです。
> だからこそ、上記のとおりの議論に発展しているのでしょう?
嘘を言ってはいけないな。
貴方は何一つ、「多数の捕虜を殺害した」という根拠を示せていない。
だからこういう議論になるのだよw
また出た。
何処が多数なのかな?
縛られている死体が村瀬写真から一体何人分確認されると言うのだね。
> では、その根拠を説明してもらいましょうか?
> なかなかの珍説かとお見受けられますが(笑)。
珍説ねぇ・・・
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新井敏治氏(歩兵第38聯隊第2中隊軍曹)の証言
「12月19日か20日ごろ、清掃のため兵十数人を連れて下関の揚子江岸に行きました。入江に漂着した死体を押し流す作業でしたが、死体は三百以上ありました。この漂着死体は、十二月十二日、南京上流の蕪湖に進出したわが軍が、退却中の中国兵を砲撃した死体が漂着したものと思う。」
(偕行社『南京戦史』P161)
石松政敏氏(第二野戦高射砲司令部副官)、松川晴策氏(千葉鉄道第一聯隊下士官)は、下関埠頭で便衣兵三百〜千名内外が処分される現場を目撃し、石松氏は、これが「南京大虐殺の実体」だと言う。
石松政敏氏の述懐
「“南京大虐殺”の問題点とは、と聞かれますと、私は一言に要約すると便衣兵の処分であると申しあげたい。
南京入城時にはすでに難民区が設けられ、入城後は日本軍の指導により内部の秩序を維持し、この区域への軍人軍属の出入は、選抜された警備隊によって厳禁されていました。南京陥落とともに、中国軍兵が難民区に遁入しましたので、日本軍は治安維持会と協力して、難民には通行票を発行しました。
潜入した便衣兵は、憲兵隊によって摘発され、さらに軍法に照らし審査のうえ、下関で銃殺になったように承知しております。
(中略)
下関の多数の死体は機関銃によるものですが、南京攻略戦のさいの脱出者、残敵掃蕩戦による戦死者であり、捕虜ではありません。
巷間で伝えられる下関での殺害というのは、摘出した便衣兵処分ではないかと思います。入城後数日、下関で毎日、捕虜が処分されているという噂を聞き、また実際にその光景を見ました。
岸壁から数本の木製桟橋が、約十数メートル、江上に突き出ていました。そのたもとの岸壁には、両手を後ろ手にしばられた便衣兵が三〜四十人蹲っており、桟橋の先には一名の日本兵が待ち構えておりました。一人ずつ歩かせて桟橋の端に来た時、突き落として小銃で射殺していました。
三つの桟橋でやっていたように覚えていますが、当時浦口への渡船に任じていた工兵の生存者がおれば、その詳細が判ると思います。
そのうちに、下関で捕虜を殺しているという話がひろがり、外国公館からも問い合わせがあったとかで、下流に移されたと聞きました。
この便衣兵の処分が、“南京虐殺”と言われるものの実体ではないかと思います。」
(偕行社『南京戦史』P201〜202)
松川晴策氏の証言
「・・・私たちは鉄道聯隊なので、早速、下関駅の復旧業務に従事しました。十五〜十六日のことであったと思いますが、下関埠頭で便衣兵が一列にならばされ、兵士が次から次へと銃剣で突き刺したり、あるいは銃で撃っているのを見ました。その数は百や二百ではなかったが、千人とはいなかったことも事実です。何千、何万というような数では絶対にありません。入城式前と記憶していますから、十六日のことかも知れません。・・・」
(偕行社『南京戦史』P203〜204)
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珍説? 単に虐殺派がこれらの証言を都合よく無視しているだけだ。
> 多数の捕虜を殺害したという部分に関しては、飯沼日記、諸証言、村瀬写真で回答ずみです。
> だからこそ、上記のとおりの議論に発展しているのでしょう?
嘘を言ってはいけないな。
貴方は何一つ、「多数の捕虜を殺害した」という根拠を示せていない。
だからこういう議論になるのだよw
これは メッセージ 11584 (Marc_Laforet さん)への返信です.