Re: 目撃・通報・検証ゼロの不思議な虐殺
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/03/21 22:34 投稿番号: [11580 / 29399]
>「何もなかった」かどうかが問題ではなく、行動範囲が広かったか否かが問題となっています。
だから、ヴォートリンの行動範囲は狭かったし、碌な情報を得てないじゃん。
>ラーベ日記 12月13日
>そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。
>調べてみると、市民の死体は背中を撃たれていた。多分逃げようとして後ろから撃たれたのだろう。
>ウィルソンの手紙 12月15日
>ワシントン・ポスト 12月17日付け
>日本軍の陸・空からの攻撃による兵士・市民の死体が散乱する
>ニューヨーク・タイムズ 12月17日付け
>屍体の散乱する南京
死体の存在や、検証なしの伝聞情報をいくら列挙しても、日本軍による市民虐殺の根拠には全くならないよ。
――――――――
十二月七日、支那軍は南京周辺を徹底的に焼き払い、焼け出された市民が難民となって城内に流入、商品流通が麻痺し食料難が加速、一部では暴動が起こった。
支那軍は治安維持のため少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺した。
上海一九三七年十二月八日発「東京日日新開」は次のように報じている。
南京衛戌司令唐生智はどさくさに乗ずる市民の暴動を恐れて七日朝来市内警備を一層厳重にして少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺し、すでにその数、百名に及んでいると支那紙は報じている。
『南京戦史』二七三頁
Ω Ω Ω
十日頃には完全な無政府状能心に陥り、統制を失った支那兵たちによる掠奪が横行した。在南京アメリカ大使館のエスピー副領事は、陥落直前の南京の様子を漢口のアメリカ大使館にこう報告している。
「日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって市民と財産に村する侵犯が行われたのであった。気も狂わんばかりになった支那兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件をたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」
エスピー報告、三八年一月二十五日より一部抜粋
Ω Ω Ω
支那軍第八七師二六一旅長の譚道平はその著『南京衛戌戦』(一九八七年、中国文史出版社)に、十二月十二日夕刻以後の情景をこう記している。
「散兵・潰兵の退却阻止の命令を受けていた宋希簾麾下の第三六師二一二団は、撤退命令を出された後も、邑江門付近の道路に鉄条網のバリケードを築き、路上には機関銃をそなえて、邑江門からの撤退を拒み続けた。このため、夜になるとパニック状態になり、邑江門から脱出しようとする部隊と、これを潰兵とみなして武力で阻止しょうとした第三六師二一二団部隊との間で銃撃戦が繰り広げられ、邑江門内は大惨事となった」
支那軍には戦闘に際して兵士を先頭に立たせ、後退する兵士がおれば背後から射殺する任務を帯びた「督戦隊」という独特の組織がある。邑江門の支那兵の死体は、この「督戦隊」によって殺されたものであった。
――――――――
>上記のような状況をあわせ総合的に次のようにコメントしているのでしょう。
>◇ボートリン日記 12月15日
>きのうときょう日本軍は広い範囲にわたって掠奪をおこない、学校を焼き払い、市民を殺害し、女性を強姦している。(略)
日本軍による市民虐殺の確かな情報を得たのに、何故ヴォートリンは日記でその説明を全くしなかったの?
ヴォートリンもダーディンも、ただ「市民を殺害」と書いただけでその説明が全くないのはおかしいだろ。
>つまり、ダーディン、スティールには、ベイツメモの内容を確認するだけの行動する自由と時間があったわけです。
ダーディンは句容に行っていて南京に居たのは12月14日の夜から12月15日の昼間までだったし、スティールたちだって南京にいたのは日本軍が南京城内に入ってからは2日間くらいだったから取材なんて殆ど出来なかった。
南京に長期間滞在したベイツを始めとする15人の安全区国際委員会メンバーや、同じく南京に長期間滞在して取材を続けた100人以上の日本人報道関係者などが、だれ一人として日本軍による市民虐殺を目撃したり確認できなかったのだから、たった1日〜2日しか居なかったダーディンやスティールたちが日本軍による市民虐殺を確認することは不可能。
宣伝工作員だったベイツの出鱈目メモを参考にして与太記事を書くのが精一杯。
つーか、12月18日付のダーディンの記事を読めば分かるけど、その記事は5000字にもおよぶ長文で、見出しとその直後にある要約部分には「民間人の殺害」という言葉を挿入していたが、その後の長文記事の中に「民間人の殺害」に関する具体的な説明は全くない。
だから、ヴォートリンの行動範囲は狭かったし、碌な情報を得てないじゃん。
>ラーベ日記 12月13日
>そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。
>調べてみると、市民の死体は背中を撃たれていた。多分逃げようとして後ろから撃たれたのだろう。
>ウィルソンの手紙 12月15日
>ワシントン・ポスト 12月17日付け
>日本軍の陸・空からの攻撃による兵士・市民の死体が散乱する
>ニューヨーク・タイムズ 12月17日付け
>屍体の散乱する南京
死体の存在や、検証なしの伝聞情報をいくら列挙しても、日本軍による市民虐殺の根拠には全くならないよ。
――――――――
十二月七日、支那軍は南京周辺を徹底的に焼き払い、焼け出された市民が難民となって城内に流入、商品流通が麻痺し食料難が加速、一部では暴動が起こった。
支那軍は治安維持のため少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺した。
上海一九三七年十二月八日発「東京日日新開」は次のように報じている。
南京衛戌司令唐生智はどさくさに乗ずる市民の暴動を恐れて七日朝来市内警備を一層厳重にして少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺し、すでにその数、百名に及んでいると支那紙は報じている。
『南京戦史』二七三頁
Ω Ω Ω
十日頃には完全な無政府状能心に陥り、統制を失った支那兵たちによる掠奪が横行した。在南京アメリカ大使館のエスピー副領事は、陥落直前の南京の様子を漢口のアメリカ大使館にこう報告している。
「日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって市民と財産に村する侵犯が行われたのであった。気も狂わんばかりになった支那兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件をたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」
エスピー報告、三八年一月二十五日より一部抜粋
Ω Ω Ω
支那軍第八七師二六一旅長の譚道平はその著『南京衛戌戦』(一九八七年、中国文史出版社)に、十二月十二日夕刻以後の情景をこう記している。
「散兵・潰兵の退却阻止の命令を受けていた宋希簾麾下の第三六師二一二団は、撤退命令を出された後も、邑江門付近の道路に鉄条網のバリケードを築き、路上には機関銃をそなえて、邑江門からの撤退を拒み続けた。このため、夜になるとパニック状態になり、邑江門から脱出しようとする部隊と、これを潰兵とみなして武力で阻止しょうとした第三六師二一二団部隊との間で銃撃戦が繰り広げられ、邑江門内は大惨事となった」
支那軍には戦闘に際して兵士を先頭に立たせ、後退する兵士がおれば背後から射殺する任務を帯びた「督戦隊」という独特の組織がある。邑江門の支那兵の死体は、この「督戦隊」によって殺されたものであった。
――――――――
>上記のような状況をあわせ総合的に次のようにコメントしているのでしょう。
>◇ボートリン日記 12月15日
>きのうときょう日本軍は広い範囲にわたって掠奪をおこない、学校を焼き払い、市民を殺害し、女性を強姦している。(略)
日本軍による市民虐殺の確かな情報を得たのに、何故ヴォートリンは日記でその説明を全くしなかったの?
ヴォートリンもダーディンも、ただ「市民を殺害」と書いただけでその説明が全くないのはおかしいだろ。
>つまり、ダーディン、スティールには、ベイツメモの内容を確認するだけの行動する自由と時間があったわけです。
ダーディンは句容に行っていて南京に居たのは12月14日の夜から12月15日の昼間までだったし、スティールたちだって南京にいたのは日本軍が南京城内に入ってからは2日間くらいだったから取材なんて殆ど出来なかった。
南京に長期間滞在したベイツを始めとする15人の安全区国際委員会メンバーや、同じく南京に長期間滞在して取材を続けた100人以上の日本人報道関係者などが、だれ一人として日本軍による市民虐殺を目撃したり確認できなかったのだから、たった1日〜2日しか居なかったダーディンやスティールたちが日本軍による市民虐殺を確認することは不可能。
宣伝工作員だったベイツの出鱈目メモを参考にして与太記事を書くのが精一杯。
つーか、12月18日付のダーディンの記事を読めば分かるけど、その記事は5000字にもおよぶ長文で、見出しとその直後にある要約部分には「民間人の殺害」という言葉を挿入していたが、その後の長文記事の中に「民間人の殺害」に関する具体的な説明は全くない。
これは メッセージ 11571 (Marc_Laforet さん)への返信です.