Re: DELI氏 (盧溝橋事件)
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/01/25 22:08 投稿番号: [8647 / 41162]
>お前さんはいつまで嘘をし続けるの?
嘘の権化みたいなオマエさんに言われる筋合いはない。
>昭和12年後期頃 盧溝橋事件,第2次上海事変,上海爆撃
>昭和12年末期頃 上海爆撃で逃げる人々,南京占領,戦時下の日本軍
「教育ネットひむか」か何か知らんが、全部、嘘、ウソ、うそのオンパレードだ。
面倒臭いから、嘘であることの説明は最初の一つだけにするよ。
>【盧溝橋事件】 1937年7月7日、中国北京郊外の盧溝橋でおこった日本と中国の軍事衝突事件。日中戦争の発端となる。日本軍部は停戦や不拡大の方針を破り、侵略を拡大した。
「軍事衝突」と言うが、度重なる銃撃に対して日本軍が反撃したのは7月7日ではなく、7月8日だよ。
――――――――
1937年7月7日、日本軍は盧溝橋の原で、鉄帽もかぶらず空砲を使って演習していました。
この時、永定河の堤防の上から中国29軍の兵士が見物していました。
ところが、夕方になっても帰りません。「まさか、あいつら俺たちを監視してるのか」と言いながら演習を続けていました。
夜10時半ごろ、清水中隊長は「今夜の演習終了」を伝令に伝達に行かせました。
本当は一声怒鳴れば聞こえるのですが、夜間の隠密作戦の訓練なので、そうしてるのです。
そうした所、仮設敵陣地の機関銃が突然、うなり出しました。伝令を敵襲と勘違いしたようです。
ところがその時、突然、堤防の方から実弾が飛んできました。
危険なので、中隊長は集合喇叭をふかせます。そうすると、竜王廟と鉄橋の中間で懐中電灯の合図があり、途端に、トーチカのすぐ南側、堤防上から十数発の実弾が飛んできました。
危険なので、中隊長は集合喇叭をふかせます。そうすると、竜王廟と鉄橋の中間で懐中電灯の合図があり、途端に、トーチカのすぐ南側、堤防上から十数発の実弾が飛んできました。
「伏せっ!」、「小隊長は直ちに人員点検!」、殆どの小隊に異状はありませんでしたが、第一小隊だけは報告がありませんでした。伝令に行った新兵がまだ戻ってなかったのです。
まさか、今の弾で殺されたのでは。
清水中隊長は、岩谷曹長を騎馬で豊台へ連絡にやりました。その後で、行方不明の新兵が戻ってきました。
・・・(略)・・・
また一方、寺平補佐官に対しては、牟田口連隊長は森田中佐のことで「彼は、爆弾三勇士で有名な廟行鎮突入部隊の指揮官ですが、あの調子でジャンジャン攻撃命令を出されると、とんでもない事になる。君がシッカリ手綱を引いてくれ」とブレーキ役を頼みました。
午前四時前、一行は出発しました。
・・・(略)・・・
宛平県城に軍使一行が入り、中国軍営長金振中と話している時に戦闘が始まりました。
第四回目の銃撃を受けたので、これをきっかけに反撃を開始したのです。時に昭和12年7月8日午前5時30分
『盧溝橋事件』寺平忠輔著(読売新聞社刊)
――――――――
●1937年
7月7日、盧溝橋事件。夜10時30分頃、演習中の日本軍が2度にわたって銃撃を受ける
7月8日、午前3時25分に支那側から3度目の射撃、4時20分に牟田口連隊長が反撃を命令、5時30分の4度目の銃撃をきっかけに反撃開始
7月9日、午前4時に現地で停戦の約束がされるまで日本側戦死11人・負傷36人、支那側(推定)戦死30人・負傷約100人。蒋介石は4個師団と戦闘機を北支に派遣
7月10日、支那側が攻撃を再開、日本側も応戦、日本側に戦死6人、負傷10人。参謀本部第三課と陸軍軍事課は、支那側が「対日武力戦争を準備」しており、北京地区1万2千人の居留民保護に不安があり、支那第29軍7万5千人に対抗するため10万人規模の「北支出兵」を主張。石原部長も承認して陸軍の決定となる
7月11日、現地で停戦協定が成立。支那の何応欽部長が、7月末までに戦争準備を整える全兵力動員の「戦争計画」を指示。14時、日本の閣議で5個師団の「北支派兵」が決定し声明
7月13日、支那兵が移動中の日本軍トラック2台に手榴弾を投げ込み全員を爆殺
7月14日、支那兵が日本の騎馬兵を惨殺
7月16日、事件を収集させようとする宋哲元に対し、蒋介石は「日本の策謀に乗じるな、戦備を整えよ」と打電
7月17日、蒋介石が『生死関頭』演説を行い戦争の決意を表明
7月25日、郎坊事件、日本軍が攻撃を受ける
7月26日、広安門事件、日本軍が攻撃を受ける
7月28日、日本軍が北支への攻撃を開始
7月29日、通州事件。日本人居留民約260名が虐殺される
8月9日、和平会談の予定だったが、海軍陸戦隊の大山中尉が惨殺される
嘘の権化みたいなオマエさんに言われる筋合いはない。
>昭和12年後期頃 盧溝橋事件,第2次上海事変,上海爆撃
>昭和12年末期頃 上海爆撃で逃げる人々,南京占領,戦時下の日本軍
「教育ネットひむか」か何か知らんが、全部、嘘、ウソ、うそのオンパレードだ。
面倒臭いから、嘘であることの説明は最初の一つだけにするよ。
>【盧溝橋事件】 1937年7月7日、中国北京郊外の盧溝橋でおこった日本と中国の軍事衝突事件。日中戦争の発端となる。日本軍部は停戦や不拡大の方針を破り、侵略を拡大した。
「軍事衝突」と言うが、度重なる銃撃に対して日本軍が反撃したのは7月7日ではなく、7月8日だよ。
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1937年7月7日、日本軍は盧溝橋の原で、鉄帽もかぶらず空砲を使って演習していました。
この時、永定河の堤防の上から中国29軍の兵士が見物していました。
ところが、夕方になっても帰りません。「まさか、あいつら俺たちを監視してるのか」と言いながら演習を続けていました。
夜10時半ごろ、清水中隊長は「今夜の演習終了」を伝令に伝達に行かせました。
本当は一声怒鳴れば聞こえるのですが、夜間の隠密作戦の訓練なので、そうしてるのです。
そうした所、仮設敵陣地の機関銃が突然、うなり出しました。伝令を敵襲と勘違いしたようです。
ところがその時、突然、堤防の方から実弾が飛んできました。
危険なので、中隊長は集合喇叭をふかせます。そうすると、竜王廟と鉄橋の中間で懐中電灯の合図があり、途端に、トーチカのすぐ南側、堤防上から十数発の実弾が飛んできました。
危険なので、中隊長は集合喇叭をふかせます。そうすると、竜王廟と鉄橋の中間で懐中電灯の合図があり、途端に、トーチカのすぐ南側、堤防上から十数発の実弾が飛んできました。
「伏せっ!」、「小隊長は直ちに人員点検!」、殆どの小隊に異状はありませんでしたが、第一小隊だけは報告がありませんでした。伝令に行った新兵がまだ戻ってなかったのです。
まさか、今の弾で殺されたのでは。
清水中隊長は、岩谷曹長を騎馬で豊台へ連絡にやりました。その後で、行方不明の新兵が戻ってきました。
・・・(略)・・・
また一方、寺平補佐官に対しては、牟田口連隊長は森田中佐のことで「彼は、爆弾三勇士で有名な廟行鎮突入部隊の指揮官ですが、あの調子でジャンジャン攻撃命令を出されると、とんでもない事になる。君がシッカリ手綱を引いてくれ」とブレーキ役を頼みました。
午前四時前、一行は出発しました。
・・・(略)・・・
宛平県城に軍使一行が入り、中国軍営長金振中と話している時に戦闘が始まりました。
第四回目の銃撃を受けたので、これをきっかけに反撃を開始したのです。時に昭和12年7月8日午前5時30分
『盧溝橋事件』寺平忠輔著(読売新聞社刊)
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●1937年
7月7日、盧溝橋事件。夜10時30分頃、演習中の日本軍が2度にわたって銃撃を受ける
7月8日、午前3時25分に支那側から3度目の射撃、4時20分に牟田口連隊長が反撃を命令、5時30分の4度目の銃撃をきっかけに反撃開始
7月9日、午前4時に現地で停戦の約束がされるまで日本側戦死11人・負傷36人、支那側(推定)戦死30人・負傷約100人。蒋介石は4個師団と戦闘機を北支に派遣
7月10日、支那側が攻撃を再開、日本側も応戦、日本側に戦死6人、負傷10人。参謀本部第三課と陸軍軍事課は、支那側が「対日武力戦争を準備」しており、北京地区1万2千人の居留民保護に不安があり、支那第29軍7万5千人に対抗するため10万人規模の「北支出兵」を主張。石原部長も承認して陸軍の決定となる
7月11日、現地で停戦協定が成立。支那の何応欽部長が、7月末までに戦争準備を整える全兵力動員の「戦争計画」を指示。14時、日本の閣議で5個師団の「北支派兵」が決定し声明
7月13日、支那兵が移動中の日本軍トラック2台に手榴弾を投げ込み全員を爆殺
7月14日、支那兵が日本の騎馬兵を惨殺
7月16日、事件を収集させようとする宋哲元に対し、蒋介石は「日本の策謀に乗じるな、戦備を整えよ」と打電
7月17日、蒋介石が『生死関頭』演説を行い戦争の決意を表明
7月25日、郎坊事件、日本軍が攻撃を受ける
7月26日、広安門事件、日本軍が攻撃を受ける
7月28日、日本軍が北支への攻撃を開始
7月29日、通州事件。日本人居留民約260名が虐殺される
8月9日、和平会談の予定だったが、海軍陸戦隊の大山中尉が惨殺される
これは メッセージ 8626 (jptmd2004 さん)への返信です.