Re: 南京市内
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/01/03 13:35 投稿番号: [8123 / 41162]
>ところで、その出典はどこでしょうか。
12月1日、南京市長が全市民に安全地区に移るように命令。
12月8日、支那軍司令長官唐生智が非戦闘員は全て安全地区に移るように命令。
南京市長や支那軍司令長官の命令に逆らってまで、一般市民が危険な場所に残っていた筈がない。
12月7日
何千という人々が南門から安全区に入ってきた。彼らの話によれば、5時までに立ち退くよう警察から命令されており、それに従わなければ家は焼き払われ、スパイとみなされる、というのだ。
(南京事件の日々P39)
12月7日
門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われるという噂が広まり、中華門の近くに住む住民はパニックに陥っている。何百という家族が安全区に押し寄せてはいるが、こんなに暗くてはもう泊まるところがみつからない。
(ラーベの日記P100)
12月8日
南京防衛軍の司令官唐生智は、市が戦闘地区に入ったと宣言し「すべての非戦闘員は国際管理下の安全地帯に終結しなければならない」と、布告した。市内他地区での移動は、黄色の腕章に特別の印で示される特別許可証所有者を除いて禁じられる。
1937/12/8NYタイムズ(ダーディン)(アメリカ資料編P390)
12月8日
把江門を通って江岸に出て行くのは今でも容易であるが、 中国人はそこから城内に入る事を許されていない。昨夜警察官が、城壁外部の下関地区の家々を一軒一軒回って、 長江を渡って浦口へ行くように警告して歩いた。
米大使館報告(アメリカ資料編P95)
12月9日
今夜は南京市の南西隅の空全体を火炎が照らしている。〜中略〜AP特派員のマクダニエルは、中国兵が灯油をかけて家に火をつけるのを目撃したと言っている。
(南京事件の日々P41)
12月10日
なにしろ、この街の運命と20万人の命がかかっているのだ。安全区の道路は、避難する人たちでごったがえしている。〜中略〜残念ながら軍人がまだ大勢、安全区に留まっている。
(ラーベの日記P107)
12月11日
今日の午後、パナイ号が移動する前に我々は、警察官が川岸で渡江して避難する準備をしているのを見た。その後、数百人の警察官が同じ目的で下関区へなだれ込むのを目撃したから、もはや市内に警察官はいないのではないかと思われる。
(アメリカ資料編P101〜102)
12月12日
今夜の記者会見で聞いたところによれば、防衛司令官の唐生智には、旗下の部隊に対する統率力が不足ために、城内のほとんどの場所で略奪が行われているそうだ。
(南京事件の日々P47)
12月13日
言いかえれば、13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却を行った際にもなんら略奪は見られませんでした。〜中略〜もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。
(安全委員会公文書T-6)
12月13日
ラーベを委員長とする安全委員会は12月17日の日本大使館宛の文書で、「13日に日本軍が入城した時には一般市民の殆ど全体を安全地区に集めていた」とある。
こうして安全区を別とすれば、南京市は人気(ひとけ)が無くなり、我々委員会のメンバー、わずかのアメリカ人新聞記者、取り残されたヨーロッパ人が2〜3人いるだけになりました。
『南京の真実』P344 1938年6月8日付け「ヒットラー宛の上申書」
>ラーべ(だったかな)などが逃げる市民が後ろから日本軍に撃たれたのを見たというのは、その泥棒か、便衣兵だったのでしょうか。
何のことかハッキリしませんが、事実なら市民ではなく、盗賊とか便衣兵なのでしょう。
12月1日、南京市長が全市民に安全地区に移るように命令。
12月8日、支那軍司令長官唐生智が非戦闘員は全て安全地区に移るように命令。
南京市長や支那軍司令長官の命令に逆らってまで、一般市民が危険な場所に残っていた筈がない。
12月7日
何千という人々が南門から安全区に入ってきた。彼らの話によれば、5時までに立ち退くよう警察から命令されており、それに従わなければ家は焼き払われ、スパイとみなされる、というのだ。
(南京事件の日々P39)
12月7日
門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われるという噂が広まり、中華門の近くに住む住民はパニックに陥っている。何百という家族が安全区に押し寄せてはいるが、こんなに暗くてはもう泊まるところがみつからない。
(ラーベの日記P100)
12月8日
南京防衛軍の司令官唐生智は、市が戦闘地区に入ったと宣言し「すべての非戦闘員は国際管理下の安全地帯に終結しなければならない」と、布告した。市内他地区での移動は、黄色の腕章に特別の印で示される特別許可証所有者を除いて禁じられる。
1937/12/8NYタイムズ(ダーディン)(アメリカ資料編P390)
12月8日
把江門を通って江岸に出て行くのは今でも容易であるが、 中国人はそこから城内に入る事を許されていない。昨夜警察官が、城壁外部の下関地区の家々を一軒一軒回って、 長江を渡って浦口へ行くように警告して歩いた。
米大使館報告(アメリカ資料編P95)
12月9日
今夜は南京市の南西隅の空全体を火炎が照らしている。〜中略〜AP特派員のマクダニエルは、中国兵が灯油をかけて家に火をつけるのを目撃したと言っている。
(南京事件の日々P41)
12月10日
なにしろ、この街の運命と20万人の命がかかっているのだ。安全区の道路は、避難する人たちでごったがえしている。〜中略〜残念ながら軍人がまだ大勢、安全区に留まっている。
(ラーベの日記P107)
12月11日
今日の午後、パナイ号が移動する前に我々は、警察官が川岸で渡江して避難する準備をしているのを見た。その後、数百人の警察官が同じ目的で下関区へなだれ込むのを目撃したから、もはや市内に警察官はいないのではないかと思われる。
(アメリカ資料編P101〜102)
12月12日
今夜の記者会見で聞いたところによれば、防衛司令官の唐生智には、旗下の部隊に対する統率力が不足ために、城内のほとんどの場所で略奪が行われているそうだ。
(南京事件の日々P47)
12月13日
言いかえれば、13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却を行った際にもなんら略奪は見られませんでした。〜中略〜もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。
(安全委員会公文書T-6)
12月13日
ラーベを委員長とする安全委員会は12月17日の日本大使館宛の文書で、「13日に日本軍が入城した時には一般市民の殆ど全体を安全地区に集めていた」とある。
こうして安全区を別とすれば、南京市は人気(ひとけ)が無くなり、我々委員会のメンバー、わずかのアメリカ人新聞記者、取り残されたヨーロッパ人が2〜3人いるだけになりました。
『南京の真実』P344 1938年6月8日付け「ヒットラー宛の上申書」
>ラーべ(だったかな)などが逃げる市民が後ろから日本軍に撃たれたのを見たというのは、その泥棒か、便衣兵だったのでしょうか。
何のことかハッキリしませんが、事実なら市民ではなく、盗賊とか便衣兵なのでしょう。
これは メッセージ 8116 (monkeybrain132 さん)への返信です.