日本は模範 >原爆投下の裏面史、、、
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2005/08/28 21:51 投稿番号: [7257 / 41162]
>それで、日本は1945年原爆投下前にアメリカ軍あるいは連合国軍に降伏の為の条件を提示したのでしょうか?
>交渉のテーブルに着いたのでしょうか?
俺の投稿を読んだ?
分かり易く纏めてやったから、よく読め!
●1945年
3月、日本が南京国民政府を仲介者とし、1931年以前の国境線を基礎にする和平交渉を模索。
5月、日本は駐ソ日本大使に「結果が如何なるものであれ、戦前の条件より後退したものであっても、それを前提に可能な和平提案を協議する」よう訓令。
日本はソ連に和平の仲介を依頼、この事は米国にも伝わる。
7月、日本はソ連を仲介者とする交渉による和平の「試案」を提示。
連合国首脳がポツダムに集まった際、近衛が同地に赴いて和平案を提出しようとしたが許されず。
7月26日、連合国側が『ポツダム宣言』で、日本に「全日本軍隊の無条件降伏」を求める。
トルーマンとバーンズは、「スティムソンの草案」から天皇の地位保全を認める条項を削り、共同提案国からソ連の名前を削って重慶国民政府に差し替え、その降伏勧告をホワイトハウス、国務省からではなく、宣伝機関の戦時情報局から発表。
日本政府は直ちに内容を検討、政策決定グループ「6首脳」の中で「全日本軍隊の無条件降伏」には全員が賛成。
8月6日、米国が広島に原爆を投下。
8月9日、ソ連が日ソ中立条約に違反して攻撃開始。米国が長崎に原爆を投下。
深夜より、日本は御前会議を開く。「天皇の国法上の地位を変更しない」という条件のみをつけて受諾しようというもの東郷外相ら3名、阿南陸相ら3名は更に占領、武装解除、戦犯処置に関する合計4条件での受諾を主張、天皇が前者の主張を支持してポツダム宣言受諾を決定。
8月10日、日本は、中立国のスイス、スウェーデン両国を通じて、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解のもとに」ポツダム宣言を受諾すると連合国側に伝達するよう外務省公電で発信。
8月13日、連合国側からの正式回答が到着。
8月14日、御前会議で「聖断」が確認。
午後の閣議で終戦の詔書を天皇自ら読むことが決定、録音されたレコードがNHKに運ばれた。
8月15日、正午にラジオ放送で終戦の詔書が放送。
Ω Ω Ω
1945年に日本が積極的に和平を追求していたことは、1937年の日本の支那に対する和平条件・提案を参考にしても明白だ。
Ω Ω Ω
1937年8月時点で日本は大幅に譲歩した条件を支那に提案した。
――――――――――――――――――
(日本の和平案)
・塘沽協定の解消
・梅津−何應欽協定の解消
・土肥原−秦徳純協定の解消
・冀察政権の解消
・冀東特殊貿易の廃止
・非武装地帯海面の中国側密輸取締りの恢復
・華北における自由飛行の廃止
・中国側が要求すれば上海停戦協定をも解消
――――――――――――――――――
上記の条件を基に1937年8月9日に会談が予定されていたが、支那の保安隊が上海で海軍陸戦隊の大山中尉と運転手を惨殺して会談を吹っ飛ばした。
後年、蒋介石の側近が蒋介石の命令だったと証言した。
次に、1937年11月2日、広田外相が正式にドイツ大使に仲介を依頼し、日本側の条件を提示した。
その内容を駐日独大使は、「穏当なもので、これなら支那側の面子も潰れないだろう」と言った。
後に、白崇禧将軍も「たったこれだけの条件なら、なんのための戦争か」と言ったくらいだった。
――――――――――――――――――
(日本側の和平条件)
・内蒙古民族は自治政府を樹立する。その国際的地位は外蒙に同じ。
・満州国国境に非武装地帯を設定し、中国警察が治安維持にあたる。北支の全権は南京政府の手に存する。事変前から交渉中の鉱物採掘権については日本に満足のいく結果を求める。
・上海は非武装地帯を拡大し国際警察を設けて管理する。
・抗日政策の停止。
・共同して防共に努める。
・関税の引き下げ。
・外国の諸権利を尊重する。
・日本側は、この条件に従って7月7日以前の状況にまで軍を退く。
――――――――――――――――――
11月6日、駐支ドイツ大使が日本の和平案を伝えたが、蒋介石はこれを蹴った。
12月に南京陥落後、日本はまたもや和平を持ちかけた。
条件は少し厳しくなったが、別に領土を要求した訳でもなかった。
前の条件が非常識なくらい譲歩していたから、少し戦勝国らしい体裁を繕っただけだった。
1938年1月2日、ドイツ大使トラウトマンが日本の和平案の返事を聞くために蒋介石を訪問しようとしたが蒋介石は会わず、1月15日に日本の和平案を蹴った。
>交渉のテーブルに着いたのでしょうか?
俺の投稿を読んだ?
分かり易く纏めてやったから、よく読め!
●1945年
3月、日本が南京国民政府を仲介者とし、1931年以前の国境線を基礎にする和平交渉を模索。
5月、日本は駐ソ日本大使に「結果が如何なるものであれ、戦前の条件より後退したものであっても、それを前提に可能な和平提案を協議する」よう訓令。
日本はソ連に和平の仲介を依頼、この事は米国にも伝わる。
7月、日本はソ連を仲介者とする交渉による和平の「試案」を提示。
連合国首脳がポツダムに集まった際、近衛が同地に赴いて和平案を提出しようとしたが許されず。
7月26日、連合国側が『ポツダム宣言』で、日本に「全日本軍隊の無条件降伏」を求める。
トルーマンとバーンズは、「スティムソンの草案」から天皇の地位保全を認める条項を削り、共同提案国からソ連の名前を削って重慶国民政府に差し替え、その降伏勧告をホワイトハウス、国務省からではなく、宣伝機関の戦時情報局から発表。
日本政府は直ちに内容を検討、政策決定グループ「6首脳」の中で「全日本軍隊の無条件降伏」には全員が賛成。
8月6日、米国が広島に原爆を投下。
8月9日、ソ連が日ソ中立条約に違反して攻撃開始。米国が長崎に原爆を投下。
深夜より、日本は御前会議を開く。「天皇の国法上の地位を変更しない」という条件のみをつけて受諾しようというもの東郷外相ら3名、阿南陸相ら3名は更に占領、武装解除、戦犯処置に関する合計4条件での受諾を主張、天皇が前者の主張を支持してポツダム宣言受諾を決定。
8月10日、日本は、中立国のスイス、スウェーデン両国を通じて、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解のもとに」ポツダム宣言を受諾すると連合国側に伝達するよう外務省公電で発信。
8月13日、連合国側からの正式回答が到着。
8月14日、御前会議で「聖断」が確認。
午後の閣議で終戦の詔書を天皇自ら読むことが決定、録音されたレコードがNHKに運ばれた。
8月15日、正午にラジオ放送で終戦の詔書が放送。
Ω Ω Ω
1945年に日本が積極的に和平を追求していたことは、1937年の日本の支那に対する和平条件・提案を参考にしても明白だ。
Ω Ω Ω
1937年8月時点で日本は大幅に譲歩した条件を支那に提案した。
――――――――――――――――――
(日本の和平案)
・塘沽協定の解消
・梅津−何應欽協定の解消
・土肥原−秦徳純協定の解消
・冀察政権の解消
・冀東特殊貿易の廃止
・非武装地帯海面の中国側密輸取締りの恢復
・華北における自由飛行の廃止
・中国側が要求すれば上海停戦協定をも解消
――――――――――――――――――
上記の条件を基に1937年8月9日に会談が予定されていたが、支那の保安隊が上海で海軍陸戦隊の大山中尉と運転手を惨殺して会談を吹っ飛ばした。
後年、蒋介石の側近が蒋介石の命令だったと証言した。
次に、1937年11月2日、広田外相が正式にドイツ大使に仲介を依頼し、日本側の条件を提示した。
その内容を駐日独大使は、「穏当なもので、これなら支那側の面子も潰れないだろう」と言った。
後に、白崇禧将軍も「たったこれだけの条件なら、なんのための戦争か」と言ったくらいだった。
――――――――――――――――――
(日本側の和平条件)
・内蒙古民族は自治政府を樹立する。その国際的地位は外蒙に同じ。
・満州国国境に非武装地帯を設定し、中国警察が治安維持にあたる。北支の全権は南京政府の手に存する。事変前から交渉中の鉱物採掘権については日本に満足のいく結果を求める。
・上海は非武装地帯を拡大し国際警察を設けて管理する。
・抗日政策の停止。
・共同して防共に努める。
・関税の引き下げ。
・外国の諸権利を尊重する。
・日本側は、この条件に従って7月7日以前の状況にまで軍を退く。
――――――――――――――――――
11月6日、駐支ドイツ大使が日本の和平案を伝えたが、蒋介石はこれを蹴った。
12月に南京陥落後、日本はまたもや和平を持ちかけた。
条件は少し厳しくなったが、別に領土を要求した訳でもなかった。
前の条件が非常識なくらい譲歩していたから、少し戦勝国らしい体裁を繕っただけだった。
1938年1月2日、ドイツ大使トラウトマンが日本の和平案の返事を聞くために蒋介石を訪問しようとしたが蒋介石は会わず、1月15日に日本の和平案を蹴った。
これは メッセージ 7224 (yominokuni56 さん)への返信です.