ミヤジマ・ミノル2
投稿者: asdll58 投稿日時: 2005/08/28 14:29 投稿番号: [7242 / 41162]
岩川の文章を引用してみよう。「ミヤジマ・ミノルの行為は自分の妻子や両親の頭上に爆弾を降らせる行為と同じなのではないかと私は思った。『当時の教育を受けた者から見ると、この行為は理解できない』という感想を私は面接者の多くから聞いた。そのたびに私は戦時教育とか民主教育とか、戦争世代とか戦後世代とか、そのようなことはミヤジマ・ミノルの行為とかかわりはないのではないか。戦友の頭上に爆弾を落とすことができるか、妻子の頭上に爆弾を落とすことができるか、という問いにたいする答えは、教育とか思想の段階ではなくそれ以前の個人の倫理や感性にかかわる問題だろうと思った。私はこういうとき日本語ではないヒューマニティとかモラルというような言葉を用いて考えたくはなかった。そういう外来語が外国人のなかでかれらが共有する意味を失って輸入され、日本人ならではの倫理と感性を育てない原因になっているとすら考えている。当時の教育を受けた者から見ると、この行為は理解できない。『していいことと悪いこと』についての感覚が日本の風土のなかに生きるからだ(身+本)の中に逞しく育っていれば、その感覚が日本人としての誇りにもつながり、“不思議”でない国民性ともなるのだろう。国家をさきに考えるような『愛国心』はけっきょくミヤジマ・ミノルと同じようなうらはらな、新しい権力集団に追従する『裏切者』を生むのではないか。状況が変ろうと支配体制が変ろうとその変化にはゆるがされぬ頑固な日本人としての個人の倫理感をそれぞれが自由に育て、保持して行くことが結果的に『愛国心』の保持ということにもなるのにちがいない。この感覚を育てる基盤は教育や政治体制ではなくて、この風土自然のなかの風俗習慣もろもろの文化ともいうべきものだろう」。岩川は要するに、近代化によって日本人としての伝統的な倫理感や感性を否定し、この日本という風土自然のなかに基盤をもたない欧米式の道徳観や、あるいは逆に、同じくそういう基盤をもたない観念的な「愛国心」を強制したことがミヤジマ・ミノルのような人物を生んだと考えているように思われるが、岩川の見方は、わたしが本章で述べていることと基本的に一致していると思う。いずれにせよ、近代日本人の一人にミヤジマ・ミノルという人物がいたことは忘れてはならないであろう。「われわれ自身のなかのヒトラー」ではないが、われわれ近代日本人の一人一人のなかにミヤジマ・ミノルが住んでいる。すでにほかのところで述べたことがあるが、このような日本兵の「卑屈さ」は彼らだけに特有のことではなく、末期の幕府、初期の明治政府の欧米諸国に対する卑屈さ、敗戦後の占領軍に対する卑屈さ(同じ敗戦国であったドイツにおいては見られなかったような)と同じ根から出ており、この根はまだなくなっていない。言ってみれば、この「卑屈な」日本兵の捕虜たちは、アメリカを神とする日本の戦後民主主義の予兆、はしりであった。(同、79−81頁)
なかんずくヨミ氏などは、典型的ミヤジマ・ノボル候補ではないだろうか。
なかんずくヨミ氏などは、典型的ミヤジマ・ノボル候補ではないだろうか。
これは メッセージ 7241 (asdll58 さん)への返信です.