南京市民の主な死因は支那軍によるもの2
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2005/08/09 23:20 投稿番号: [6923 / 41162]
>何もなかったところから、なぜ現地調達が出来るのだ?
>家もあるし、食料もあるし、人もいたのだよ。
支那軍は、南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払ったが、道路沿いにない村落と民家は多少残された。
そのような所で、日本軍はカネを払って食料を調達したのだが、南京戦の前には運良く公的機関か商業関係の倉庫から大量の食料を手に入れることが出来たので、それほど村落や民家から多くの食料を調達せずに済んだ。
(参考)
12月1日 第16師団の後方参謀・木佐木久少佐
奔牛鎮で米八百表、小麦1千表、砂糖百袋、小蒸気(発動機船)二杯(隻)を徴発せり。
12月4日 上海派遣軍参謀長・飯沼守少将の日記
「無錫に大工場多く且倉庫櫛比す」
「本日、白米、軍の約一か月分、塩大麦燕麦多量徴発せり」
このような大量の食糧が、普通の民家に隠されているわけがないので、公的機関か商業関係の倉庫にあったもの。
「南京攻撃を前に無錫で大量に食糧を徴発したことで、主食に関しては輸送の問題を除いてほぼ解決した」(榊原証言)
徴発や労役に関しては、日本軍はちゃんとカネを払ったが、一方の支那軍はカネを払わずに殺して奪った。
●日本軍は金を払う
長谷川秋広上等兵の私家版『戦火の揚子江を行く』
「1月25日(曇)きょうは、発電所に2名の使役をだす。分隊は正門から約2キロの部落へ、野菜と食糧の徴発に行った。しかし、軍票がないので、日本円で払うと、土民は喜び、鶏卵まで加えてくれた」(46頁)
「2月6日(晴後曇、時々小雪) 分隊の何名かを残して徴発に行く。土民も段々好意を持つようになった。軍票がないので、幾らかの日本銭を与えると『謝謝』と笑顔で送ってくれる。」(49頁)
「4月5日(晴) きょうは勤務はない。昨日のこと(注:松江付近における敵の急襲)もあるので、いつ非常出勤があるかも知れない。野菜不足のため、城外に徴発に行く。農民は、我々がいつも金を与える関係で喜んで野菜を売ってくれる。またわれわれのためにすこし備蓄しておいてくれるらしい。」(72頁)
Ω Ω Ω Ω
●支那軍の略奪
私家版の片山兵二著『郷土部隊と共に歩んだ「わが青春の中国大陸従軍譚」』(昭和52年)
以下は佐藤己三男准尉から聞いた南京陥落から四ヶ月後の湯山の模様。
「どうも油断がならなくてね。昨夜も付近烽火を合図に数十名の敗残兵が現れ、良民から金品を強奪して行きました。そのため毎日討伐をやり、警戒を厳重にしていますよ」(347頁)
大坪鉄三郎准尉と長倉久徳一等兵が語る、湯山の南の句容の状況。
「この近くの部落へ十五名ばかりの強盗がやってきて、主人(農夫)を竈の上に吊り上げ、火あぶりにしたが、それが丁度、憲兵隊が使っているコックの実家なので、すぐに報告があり、今朝二手に分かれて討伐をやったのです。・・・奴らの残忍性にはあきれます。
農民を火あぶりにした上、金を奪い取り、憲兵隊へ密告せば命がないぞと脅していくので、農民はブルブル震えて仕事が手につかないのです、そのためわれわれが行くと喜び親しんでイスをすすめ、お茶を出して歓待してくれますよ」(349頁〜350頁)
『1937南京攻略戦の真実』東中野修道 編著 小学館文庫 より引用
こうして見ると、農村部における犠牲者の死亡原因も殆ど全て支那軍によるものだと考えるのが合理的な思考なのだ。
>家もあるし、食料もあるし、人もいたのだよ。
支那軍は、南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払ったが、道路沿いにない村落と民家は多少残された。
そのような所で、日本軍はカネを払って食料を調達したのだが、南京戦の前には運良く公的機関か商業関係の倉庫から大量の食料を手に入れることが出来たので、それほど村落や民家から多くの食料を調達せずに済んだ。
(参考)
12月1日 第16師団の後方参謀・木佐木久少佐
奔牛鎮で米八百表、小麦1千表、砂糖百袋、小蒸気(発動機船)二杯(隻)を徴発せり。
12月4日 上海派遣軍参謀長・飯沼守少将の日記
「無錫に大工場多く且倉庫櫛比す」
「本日、白米、軍の約一か月分、塩大麦燕麦多量徴発せり」
このような大量の食糧が、普通の民家に隠されているわけがないので、公的機関か商業関係の倉庫にあったもの。
「南京攻撃を前に無錫で大量に食糧を徴発したことで、主食に関しては輸送の問題を除いてほぼ解決した」(榊原証言)
徴発や労役に関しては、日本軍はちゃんとカネを払ったが、一方の支那軍はカネを払わずに殺して奪った。
●日本軍は金を払う
長谷川秋広上等兵の私家版『戦火の揚子江を行く』
「1月25日(曇)きょうは、発電所に2名の使役をだす。分隊は正門から約2キロの部落へ、野菜と食糧の徴発に行った。しかし、軍票がないので、日本円で払うと、土民は喜び、鶏卵まで加えてくれた」(46頁)
「2月6日(晴後曇、時々小雪) 分隊の何名かを残して徴発に行く。土民も段々好意を持つようになった。軍票がないので、幾らかの日本銭を与えると『謝謝』と笑顔で送ってくれる。」(49頁)
「4月5日(晴) きょうは勤務はない。昨日のこと(注:松江付近における敵の急襲)もあるので、いつ非常出勤があるかも知れない。野菜不足のため、城外に徴発に行く。農民は、我々がいつも金を与える関係で喜んで野菜を売ってくれる。またわれわれのためにすこし備蓄しておいてくれるらしい。」(72頁)
Ω Ω Ω Ω
●支那軍の略奪
私家版の片山兵二著『郷土部隊と共に歩んだ「わが青春の中国大陸従軍譚」』(昭和52年)
以下は佐藤己三男准尉から聞いた南京陥落から四ヶ月後の湯山の模様。
「どうも油断がならなくてね。昨夜も付近烽火を合図に数十名の敗残兵が現れ、良民から金品を強奪して行きました。そのため毎日討伐をやり、警戒を厳重にしていますよ」(347頁)
大坪鉄三郎准尉と長倉久徳一等兵が語る、湯山の南の句容の状況。
「この近くの部落へ十五名ばかりの強盗がやってきて、主人(農夫)を竈の上に吊り上げ、火あぶりにしたが、それが丁度、憲兵隊が使っているコックの実家なので、すぐに報告があり、今朝二手に分かれて討伐をやったのです。・・・奴らの残忍性にはあきれます。
農民を火あぶりにした上、金を奪い取り、憲兵隊へ密告せば命がないぞと脅していくので、農民はブルブル震えて仕事が手につかないのです、そのためわれわれが行くと喜び親しんでイスをすすめ、お茶を出して歓待してくれますよ」(349頁〜350頁)
『1937南京攻略戦の真実』東中野修道 編著 小学館文庫 より引用
こうして見ると、農村部における犠牲者の死亡原因も殆ど全て支那軍によるものだと考えるのが合理的な思考なのだ。
これは メッセージ 6922 (deliciousicecoffee さん)への返信です.