上海派遣軍参謀長飯沼昭守少将の日記)
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/06/14 22:14 投稿番号: [6010 / 41162]
12月4日
南京攻略下命にともなって、海軍の航空作戦も南京攻略の協力に転じ、南京、蕪湖方面の攻撃に主力をそそがれた。
前日 南京東方約140kmの地点の常州に海軍航空隊基地が開かれ、同基地を拠点に陸戦協力の為の南京、蕪湖の攻撃が加速される。この日、海軍航空隊の偵察機、戦闘機、爆撃機計19機が出撃した。(中国方面海軍作戦)
南京特別市の最南端にある高淳県は、水運で蕪湖へ、陸路で南京城へ通じる交通の要所にある。この日国民党軍の蕪湖への撤退を阻止するために、橋と運河を破壊する目的で、県城、および街も爆撃された。
なかでも、蕪湖〜上海間に位置する運河の港街となっている東項の街が激しい空襲を受け、街の中心地に集中的に爆撃が行われ、爆風で吹き飛ばされた死体が沿道に散乱し、街の家屋は火の海となり、廃墟と化した。約80発の爆弾が落とされ、住民約100余人が死亡した。破壊され焼失した家屋は700余間(200余戸)(高淳県誌)
第五師団国崎支隊(支隊長国崎登少将、歩兵第9旅団)は12月2日広徳を出発、3日朗渓に達し、同地で水上機動の準備を行い、6日同地を出発、主として水路を利用して水陽鎮、高淳県城を通過、9日太平を占領した。(支那事変陸軍作戦)
12月6日日本軍(国崎支隊)が水陽鎮から県境の水碧橋村に進入し、村民36名を惨殺した。翌7日 高淳県城を占領した日本軍は、住民に対して発砲し、30余名を死傷させた。(高淳県誌)
江浦県は六合県とともに長江の北側にある、中支那方面軍司令部は南京攻略において中国軍を包囲殲滅する作戦を徹底しようとした、そのため、長江北岸の両県にたいしてもあらかじめ、日本軍を進撃させて南京防衛軍の退路を絶とうとしたのである。
完全包囲網である。
12月11日
「国崎支隊、長江左岸に移りたる報に、殿下(朝香宮上海派遣軍司令官)も[何とかして、13D(師団)を早く長江を渡し、津浦線を遮断し得ざるやと多少、焦慮せらる」(上海派遣軍参謀長飯沼昭守少将の日記)
国崎支隊は慈湖鎮付近で長江を渡河し、北岸を南京城の方向に進撃、12日午後1時には江浦県城に侵攻した。
12月11日に鳥江鎮を占領した日本軍(国崎支隊)2000余名は同地から南京戦区に突入し、国民党軍と銃火を交え、浦口を目指して侵攻する、住民も巻き込まれて殺害され、民家には火が放たれた。
江浦県城占領までに30余名の農民や難民が殺害されている。さらに、県城から浦口に至る沿道の農民や漁民44名が死傷、水上部隊(約100名)が西江口(小港)を襲撃し、農民、商人、子供ら30余名を殺害、商船100余隻を砲撃、破壊、焼却した。
民船を捜索中に発見した婦女子10数名は船中で輪姦され殺害された。(江浦県誌)
広大な南京戦区の県城と村には、まだ、膨大な住民が居住していた。
南京近郊の6県を合わせれば150万人以上と思われた住民のうち、南京攻略戦が開始されて、一帯が戦場と化しても汽車や自動車で遠くへ避難していくことは殆ど不可能であった。
県城や村は孤立して、散在しており、近郊にはラジオや新聞などの通信手段はなく、日本軍の正確な情報は伝わらなかった。
また、何よりも農民には守るべき田畑や大切な家畜があり、それらを置いて避難することが出来なかった。
そして、日本軍の大群が次々と波状的に長期に渡り、10数万の兵隊が進撃してくるなど、予想もしていなかったのである。
第16師団状況報告
12月24日
「今次作戦間、兵馬の給養は現地物資をもって、これに充つるの主義をとり、もって、迅速なる機動に応ぜんと企図せしが、幸いに富裕なる資源により、大旨良好なる給養を実施しえたり」と総括している。(南京戦史資料集)
進軍途中の物資豊富な都市、農村で十分に食料徴発、略奪が出来たことの証である。
農民が遠くへ避難せず、生産し、生活を営んでいた農村地帯に進入したからこそ、家畜や作物を略奪して食し、日本軍兵士は飢餓に苦しまずに進軍できたのである。そして、食料を供給してくれた農民を殺戮し、家を焼きはらったのである。
南京に向かう日本軍の諸部隊が軍規の弛緩による破壊欲や悪戯、気晴らしから沿道の村々を放火して進軍したため、住む家を無くした農民たちは難民のような生活を余儀なくされ生活しているところへ、部落掃討に来た日本軍に捕縛され、集団虐殺されるという悲劇も頻繁に発生している。
南京攻略下命にともなって、海軍の航空作戦も南京攻略の協力に転じ、南京、蕪湖方面の攻撃に主力をそそがれた。
前日 南京東方約140kmの地点の常州に海軍航空隊基地が開かれ、同基地を拠点に陸戦協力の為の南京、蕪湖の攻撃が加速される。この日、海軍航空隊の偵察機、戦闘機、爆撃機計19機が出撃した。(中国方面海軍作戦)
南京特別市の最南端にある高淳県は、水運で蕪湖へ、陸路で南京城へ通じる交通の要所にある。この日国民党軍の蕪湖への撤退を阻止するために、橋と運河を破壊する目的で、県城、および街も爆撃された。
なかでも、蕪湖〜上海間に位置する運河の港街となっている東項の街が激しい空襲を受け、街の中心地に集中的に爆撃が行われ、爆風で吹き飛ばされた死体が沿道に散乱し、街の家屋は火の海となり、廃墟と化した。約80発の爆弾が落とされ、住民約100余人が死亡した。破壊され焼失した家屋は700余間(200余戸)(高淳県誌)
第五師団国崎支隊(支隊長国崎登少将、歩兵第9旅団)は12月2日広徳を出発、3日朗渓に達し、同地で水上機動の準備を行い、6日同地を出発、主として水路を利用して水陽鎮、高淳県城を通過、9日太平を占領した。(支那事変陸軍作戦)
12月6日日本軍(国崎支隊)が水陽鎮から県境の水碧橋村に進入し、村民36名を惨殺した。翌7日 高淳県城を占領した日本軍は、住民に対して発砲し、30余名を死傷させた。(高淳県誌)
江浦県は六合県とともに長江の北側にある、中支那方面軍司令部は南京攻略において中国軍を包囲殲滅する作戦を徹底しようとした、そのため、長江北岸の両県にたいしてもあらかじめ、日本軍を進撃させて南京防衛軍の退路を絶とうとしたのである。
完全包囲網である。
12月11日
「国崎支隊、長江左岸に移りたる報に、殿下(朝香宮上海派遣軍司令官)も[何とかして、13D(師団)を早く長江を渡し、津浦線を遮断し得ざるやと多少、焦慮せらる」(上海派遣軍参謀長飯沼昭守少将の日記)
国崎支隊は慈湖鎮付近で長江を渡河し、北岸を南京城の方向に進撃、12日午後1時には江浦県城に侵攻した。
12月11日に鳥江鎮を占領した日本軍(国崎支隊)2000余名は同地から南京戦区に突入し、国民党軍と銃火を交え、浦口を目指して侵攻する、住民も巻き込まれて殺害され、民家には火が放たれた。
江浦県城占領までに30余名の農民や難民が殺害されている。さらに、県城から浦口に至る沿道の農民や漁民44名が死傷、水上部隊(約100名)が西江口(小港)を襲撃し、農民、商人、子供ら30余名を殺害、商船100余隻を砲撃、破壊、焼却した。
民船を捜索中に発見した婦女子10数名は船中で輪姦され殺害された。(江浦県誌)
広大な南京戦区の県城と村には、まだ、膨大な住民が居住していた。
南京近郊の6県を合わせれば150万人以上と思われた住民のうち、南京攻略戦が開始されて、一帯が戦場と化しても汽車や自動車で遠くへ避難していくことは殆ど不可能であった。
県城や村は孤立して、散在しており、近郊にはラジオや新聞などの通信手段はなく、日本軍の正確な情報は伝わらなかった。
また、何よりも農民には守るべき田畑や大切な家畜があり、それらを置いて避難することが出来なかった。
そして、日本軍の大群が次々と波状的に長期に渡り、10数万の兵隊が進撃してくるなど、予想もしていなかったのである。
第16師団状況報告
12月24日
「今次作戦間、兵馬の給養は現地物資をもって、これに充つるの主義をとり、もって、迅速なる機動に応ぜんと企図せしが、幸いに富裕なる資源により、大旨良好なる給養を実施しえたり」と総括している。(南京戦史資料集)
進軍途中の物資豊富な都市、農村で十分に食料徴発、略奪が出来たことの証である。
農民が遠くへ避難せず、生産し、生活を営んでいた農村地帯に進入したからこそ、家畜や作物を略奪して食し、日本軍兵士は飢餓に苦しまずに進軍できたのである。そして、食料を供給してくれた農民を殺戮し、家を焼きはらったのである。
南京に向かう日本軍の諸部隊が軍規の弛緩による破壊欲や悪戯、気晴らしから沿道の村々を放火して進軍したため、住む家を無くした農民たちは難民のような生活を余儀なくされ生活しているところへ、部落掃討に来た日本軍に捕縛され、集団虐殺されるという悲劇も頻繁に発生している。
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