日本の対米和平打診は1945年2月から
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2005/06/07 22:47 投稿番号: [5905 / 41162]
>3月8日に天皇は内閣、軍部からこの大戦の戦況を聞き、敗戦は間違い無いとの感触を得ながら、敵に一撃を加えてからの和平を選択し、終戦を長引かせた、その結果、神風、その他の特攻隊の編成、と東京、大阪、その他都市部への無差別爆撃、広島、長崎、原爆投下、ソ連の参戦によりシベリア抑留等々、最高位責任者のとしての判断を誤り、多大の死ななくてもよい、兵士、民衆を殺してしまっている。民を思う政治が行われたか?
米戦略爆撃調査は1946年7月、トルーマン大統領に「日本の戦争終結努力」と題する報告を提出した。日本指導部との面接調査を基にしたこの報告は、単なる流言とされていた降伏の打診が、かなり早い時点からしばしば行われていたことを確認している。
同報告によれば、1944年2月には日本指導部の多くが、この戦争には勝てないと判断し、妥協による和平努力を主張している。しかも、この「妥協による和平」は日本の戦前の地位を引き上げようというものではなかった。寧ろ、高木惣吉海軍少将は、日本は朝鮮と台湾の放棄を前提にして交渉すべきであると主張していたのだ。
1944年7月には、和平派は東条内閣を倒すところまで力を強めていた。そして後継内閣は最高戦争指導会議を設置した。その主な仕事は戦争からの離脱だった。
1945年2月には早くも、和平打診に関する情報がアメリカの新聞で報道されている。当時、この提案は公式に無視、ないしは否定されたが、ようやく、その事実を裏付ける証拠が出てきた。3月には日本政府が和平交渉の可能性を模索していたことは事実だ。交渉は中国を仲介者とし、1931年以前の国境線を基礎にするものだった。そして、同年5月までに駐ソ日本大使は「結果が如何なるものであれ、『戦前の条件より後退したものであっても』」、それを前提に可能な和平提案を協議するよう訓令を受けている。これほど早い時期に日本政府内部で降伏を唱える人々が影響力を持ち始めていたことを、米戦略爆撃調査報告は確認しているのだ。同報告は「天皇、枢密院議長、首相、外相、海相は1945年5月に、連合国の条件による敗戦を受け入れることになっても、戦争は終結させなければならないとの結論に達していた」
いまや政府内部の指導権を握った和平派は、こうした大きな支持を得て、この月のうちに具体的行動を起こした。既に見たように、モスクワ駐在日本大使は交渉打診の訓令を受けていた。そして近衛公を交渉のためモスクワに送ることも計画された。できれば無条件降伏より緩い条件を期待してはいたが、いづれにしても和平のための交渉だった。
1945年5月付けのワシントン・ポストは、日本の降伏条件について伝えたシカゴ・サンのフレデリック・クー記者の記事を転載している。それは、日本軍部の全面降伏、中国から奪った領土と戦争中に占領した全領土の放棄を求めたカイロ宣言を、本土は占領しないという条件で受け入れるというものだった。同記者が伝えた和平提案は、米戦略爆撃調査が報告する日本政府の協議内容と一致している。クー記者はまた、米国務省が4月にこの和平提案を受け取ったと伝えたが、これに対して国務省は公式提案は何も受け取っていないと答えていた。
5月12日、ハルぜー提督が「太平洋の某所」で従軍牧師グループに語った話から判断すると、戦争状況を把握する立場の人は日本の和平工作を予測していたようだ。同提督は日本が間もなくかなり積極的に和平打診をしてくるだろうが、「日本を2度と戦争できなくなるまで叩き潰して、はじめて戦争目的は成就する。我々はそこまで徹底しなければならない」と語っている。
『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著 (P143)
米戦略爆撃調査は1946年7月、トルーマン大統領に「日本の戦争終結努力」と題する報告を提出した。日本指導部との面接調査を基にしたこの報告は、単なる流言とされていた降伏の打診が、かなり早い時点からしばしば行われていたことを確認している。
同報告によれば、1944年2月には日本指導部の多くが、この戦争には勝てないと判断し、妥協による和平努力を主張している。しかも、この「妥協による和平」は日本の戦前の地位を引き上げようというものではなかった。寧ろ、高木惣吉海軍少将は、日本は朝鮮と台湾の放棄を前提にして交渉すべきであると主張していたのだ。
1944年7月には、和平派は東条内閣を倒すところまで力を強めていた。そして後継内閣は最高戦争指導会議を設置した。その主な仕事は戦争からの離脱だった。
1945年2月には早くも、和平打診に関する情報がアメリカの新聞で報道されている。当時、この提案は公式に無視、ないしは否定されたが、ようやく、その事実を裏付ける証拠が出てきた。3月には日本政府が和平交渉の可能性を模索していたことは事実だ。交渉は中国を仲介者とし、1931年以前の国境線を基礎にするものだった。そして、同年5月までに駐ソ日本大使は「結果が如何なるものであれ、『戦前の条件より後退したものであっても』」、それを前提に可能な和平提案を協議するよう訓令を受けている。これほど早い時期に日本政府内部で降伏を唱える人々が影響力を持ち始めていたことを、米戦略爆撃調査報告は確認しているのだ。同報告は「天皇、枢密院議長、首相、外相、海相は1945年5月に、連合国の条件による敗戦を受け入れることになっても、戦争は終結させなければならないとの結論に達していた」
いまや政府内部の指導権を握った和平派は、こうした大きな支持を得て、この月のうちに具体的行動を起こした。既に見たように、モスクワ駐在日本大使は交渉打診の訓令を受けていた。そして近衛公を交渉のためモスクワに送ることも計画された。できれば無条件降伏より緩い条件を期待してはいたが、いづれにしても和平のための交渉だった。
1945年5月付けのワシントン・ポストは、日本の降伏条件について伝えたシカゴ・サンのフレデリック・クー記者の記事を転載している。それは、日本軍部の全面降伏、中国から奪った領土と戦争中に占領した全領土の放棄を求めたカイロ宣言を、本土は占領しないという条件で受け入れるというものだった。同記者が伝えた和平提案は、米戦略爆撃調査が報告する日本政府の協議内容と一致している。クー記者はまた、米国務省が4月にこの和平提案を受け取ったと伝えたが、これに対して国務省は公式提案は何も受け取っていないと答えていた。
5月12日、ハルぜー提督が「太平洋の某所」で従軍牧師グループに語った話から判断すると、戦争状況を把握する立場の人は日本の和平工作を予測していたようだ。同提督は日本が間もなくかなり積極的に和平打診をしてくるだろうが、「日本を2度と戦争できなくなるまで叩き潰して、はじめて戦争目的は成就する。我々はそこまで徹底しなければならない」と語っている。
『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著 (P143)
これは メッセージ 5896 (yominokuni56 さん)への返信です.