外国人の見た南京からの書簡 1
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/03/08 21:21 投稿番号: [4688 / 41162]
駐華ドイツ大使館(漢口)一九三八年二月一日付報告第六七号に添付
作成者 ---- シャルフェンベルク(駐華ドイツ大使館事務長、南京)
文書番号二七二二/一六一二/三七
一九三八年一月一三日の南京情勢
南京では、電報、郵便、電話がいずれも不通で、バス、タクシー、人力車も走っていない。水道は止まっており、電気は大使館の建物に通じてはいるが、階上から光が漏れることは許されない。英国大使館にはまだ電気も通じていない。
交通は途絶えている。なぜなら市の城外地区がすべて中国軍によって、また城内の大部分が日本軍の手で焼き払われてしまったためである。城内にはもはや誰一人住んでいないが、残りの約二〇万の市民は安全区(旧住宅街)に収容され、家や庭でその日暮らしの生活をしている。筵で覆われた大テントに、一張当たり六百人近くが暮らしており、安全区外に出ることも許されない。安全区は保証によって封鎖されている。
『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P83
添付書類
作成者 ---- シャルフェンベルク(南京)
一九三八年二月七日付駐華ドイツ大使館報告第七六号(文書番号二七一八/一七一五/三八)に添付
一九三八年一月二〇日の南京の状況
われわれの状況は先週いくらか良くなった。しかし、安全区の二五万人(人数はラーベ委員会の発表による)の難民の状況はひどく悪化している。
『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P111
外交資料(私的報告)
一九三八年一月一三日付
作成者 ---- クレーガー(南京)
文書番号なし
南京の運命の日々 一九三七年一二月一二日〜一九三八年一月一三日
日本軍は難民区を承認しなかったが、戦闘中にはこれを尊重したからだ。難民区に加えられた砲撃はごくわずかで、戦闘の犠牲者も非常に少なかった。事実、南京に残った全住民、つまり約二〇万から二五万の人々が難民区に逃げ込んだ。大きな難民収容所に人々を受け入れるための十分な準備がなされた。二か月分の米が運び込まれ、潤沢な資金も自由に使用できた。
『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P52
報告
駐華ドイツ大使館(漢口)宛、発信者 ---- アルテンブルク(駐華ドイツ大使館参事官、広東)
一九三八年三月三日広東総領事館
文書番号二三八/八三一/三八
写し三
目前に迫ったG・フィッチ氏の合衆国講演旅行
テーマは「南京における日本兵」
G・フィッチ氏は、二五万人の中国人難民のための南京「安全区」を管理する国際委員会のメンバーであったが、講演では個人的経験だけを語った。本人が意図したことではなかったが、講演では〔国際
〕委員会のドイツ人メンバーのことや、かれらに信頼を寄せた一般市民を守るために、軍紀の乱れた日本軍兵士に立ち向かったかれらの勇敢な行動について繰り返し言及され、少数ながらも南京で頑張ったドイツ人の存在を示す大変より証拠となった。この講演は、領事代理のケンペ博士も聴いていたが、そのレポートによれば、客観的かつ冷静で印象深いものであった。
これを決して残虐宣伝などといって片づけることはできない。
『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P216
南京における戦争被害 L・C・S・スミス
1.人口
南京市の戦前の人口はちょうど100万であったが、爆撃が繰り返され、後には南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。市の陥落当時(12月12〜13日)の人口は20万から25万であった。我々が3月に行った抽出調査で報告された人員を50倍すれば、すぐさま市部調査で表示されている22万1150人という人口数が得られる。この数は当時の住民総数のおそらく80ないし90パーセントを表したものであろうし、住民の中には調査員の手の届かぬ ところに暮らしていたものもあった。(人口についてさらにつっこんで問題するには、第一表の注を見よ。)
2万7500名は国際委員会の維持していた難民収容所にすんでいたもので、調査人員の12パーセントに当たる。収容所には入らなかったが安全区内に住んでいたものは6万8000人で、全体の31パーセントを占めている。調査の記述によれば建物数のわずか4パーセントがあるだけであり、また城内総面 積のおよそ8分の1にすぎなかった地域に、市の陥落以降、14週もたった後でも、住民の43パーセントが住んでいたのである。こうした事実は、ある種の群集心理と、多少でも安全性があれば喜んで代償を払うという気持ちを示している。安全区内では事実上焼失が一軒もなかったことはさらに有利なことで、安全区は、日本軍当局によって公認されなかったとしても、外部の破壊と暴行に比べれば、全体として優遇処置がとられていたことを示している。
『\xC6
作成者 ---- シャルフェンベルク(駐華ドイツ大使館事務長、南京)
文書番号二七二二/一六一二/三七
一九三八年一月一三日の南京情勢
南京では、電報、郵便、電話がいずれも不通で、バス、タクシー、人力車も走っていない。水道は止まっており、電気は大使館の建物に通じてはいるが、階上から光が漏れることは許されない。英国大使館にはまだ電気も通じていない。
交通は途絶えている。なぜなら市の城外地区がすべて中国軍によって、また城内の大部分が日本軍の手で焼き払われてしまったためである。城内にはもはや誰一人住んでいないが、残りの約二〇万の市民は安全区(旧住宅街)に収容され、家や庭でその日暮らしの生活をしている。筵で覆われた大テントに、一張当たり六百人近くが暮らしており、安全区外に出ることも許されない。安全区は保証によって封鎖されている。
『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P83
添付書類
作成者 ---- シャルフェンベルク(南京)
一九三八年二月七日付駐華ドイツ大使館報告第七六号(文書番号二七一八/一七一五/三八)に添付
一九三八年一月二〇日の南京の状況
われわれの状況は先週いくらか良くなった。しかし、安全区の二五万人(人数はラーベ委員会の発表による)の難民の状況はひどく悪化している。
『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P111
外交資料(私的報告)
一九三八年一月一三日付
作成者 ---- クレーガー(南京)
文書番号なし
南京の運命の日々 一九三七年一二月一二日〜一九三八年一月一三日
日本軍は難民区を承認しなかったが、戦闘中にはこれを尊重したからだ。難民区に加えられた砲撃はごくわずかで、戦闘の犠牲者も非常に少なかった。事実、南京に残った全住民、つまり約二〇万から二五万の人々が難民区に逃げ込んだ。大きな難民収容所に人々を受け入れるための十分な準備がなされた。二か月分の米が運び込まれ、潤沢な資金も自由に使用できた。
『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P52
報告
駐華ドイツ大使館(漢口)宛、発信者 ---- アルテンブルク(駐華ドイツ大使館参事官、広東)
一九三八年三月三日広東総領事館
文書番号二三八/八三一/三八
写し三
目前に迫ったG・フィッチ氏の合衆国講演旅行
テーマは「南京における日本兵」
G・フィッチ氏は、二五万人の中国人難民のための南京「安全区」を管理する国際委員会のメンバーであったが、講演では個人的経験だけを語った。本人が意図したことではなかったが、講演では〔国際
〕委員会のドイツ人メンバーのことや、かれらに信頼を寄せた一般市民を守るために、軍紀の乱れた日本軍兵士に立ち向かったかれらの勇敢な行動について繰り返し言及され、少数ながらも南京で頑張ったドイツ人の存在を示す大変より証拠となった。この講演は、領事代理のケンペ博士も聴いていたが、そのレポートによれば、客観的かつ冷静で印象深いものであった。
これを決して残虐宣伝などといって片づけることはできない。
『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 P216
南京における戦争被害 L・C・S・スミス
1.人口
南京市の戦前の人口はちょうど100万であったが、爆撃が繰り返され、後には南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。市の陥落当時(12月12〜13日)の人口は20万から25万であった。我々が3月に行った抽出調査で報告された人員を50倍すれば、すぐさま市部調査で表示されている22万1150人という人口数が得られる。この数は当時の住民総数のおそらく80ないし90パーセントを表したものであろうし、住民の中には調査員の手の届かぬ ところに暮らしていたものもあった。(人口についてさらにつっこんで問題するには、第一表の注を見よ。)
2万7500名は国際委員会の維持していた難民収容所にすんでいたもので、調査人員の12パーセントに当たる。収容所には入らなかったが安全区内に住んでいたものは6万8000人で、全体の31パーセントを占めている。調査の記述によれば建物数のわずか4パーセントがあるだけであり、また城内総面 積のおよそ8分の1にすぎなかった地域に、市の陥落以降、14週もたった後でも、住民の43パーセントが住んでいたのである。こうした事実は、ある種の群集心理と、多少でも安全性があれば喜んで代償を払うという気持ちを示している。安全区内では事実上焼失が一軒もなかったことはさらに有利なことで、安全区は、日本軍当局によって公認されなかったとしても、外部の破壊と暴行に比べれば、全体として優遇処置がとられていたことを示している。
『\xC6
これは メッセージ 4687 (yominokuni56 さん)への返信です.