>monpa60の想像らしい
投稿者: monpa60 投稿日時: 2005/02/11 14:26 投稿番号: [4542 / 41162]
>>中国各地から召集された中国兵には食料は支給されていません。また食料を自分で購入できるほどの金品も支給されていません
>これは何を根拠に書かれたモノでしょうか?
常識です。これを否定するような資料はどこにもありません。
>原文の掲載を望みます。日付はいつでしょうかね?と聞いたのですがね。
本当に平和的な占領で無統制の中国軍がいなくなって南京住民は大喜びしていましたね。
「松井大将は上海軍と第10軍とを統轄する中支那派遣軍司令官(当時、中国は支那と呼ばれていた)に任命され、南京攻略戦を指揮した。日本軍は破竹の勢いで当時の首都、南京に迫った。蒋介石、何応欽ら政府と軍の首脳らが南京を脱出したのは12月7日頃である。これと前後して馬市長はじめ公務員も、金持ちもほとんどが南京を脱出した。残るは市民約20万(公称)唐生智将軍ひきいる約5万の国民党軍であった。
大将はこの20万市民の安全と中山陵等史蹟を守るため降伏を勧告するビラを9日、飛行機から城内に散布した。しかし、唐将軍からの回答はなく、10日、正午を期して総攻撃を開始した。松井大将は総攻撃に際して、全軍将兵に軍紀を厳守して皇軍の威信を示せと命じ、同時に国際安全区にいる20万市民の愛護を厳命し、無用の者の立ち入りを厳禁した。
南京城は激戦のすえ13日に陥落したが、唐将軍は前夜、逃走したため、指揮官を失った敗残兵は略奪を欲しいままにし、一般市民の着衣を奪って安全区に逃げ込んだ。 17日、入場式、18日戦死者の慰霊祭が行われた。この時、松井大将は「中国の戦死者も、ともに慰霊しよう」と提案したが師団長から異論が出て取りやめとなった。この時の大将の思いが、後の興亜観音の建立につながるのである。
19日には幕僚数名をともなって城内の清涼山や北極閣に登り、城内を視察、看望した。「概して城内は、ほとんど兵火をまぬがれ市内、安堵の色深し。」と大将は日記に記している。市民約20万を管理していた国際安全委員会のラーベ委員長から安全区内は砲爆撃もなく全員無事であった旨の感謝の書簡があった。大将も安全区の代表らに会い慰労している。
21日の日記には「人民も既に多少づつ帰来せるを見る」とある。人口は1ヶ月後には25万に増加したのである。22日、大将は上海に帰り、2回にわたり、内外記者団と記者会見を行っている。この記者会見でもいわゆる゛南京虐殺”に関する質問など全然なかった。大将がこれを初めて耳にしたのは、終戦直後、アメリカの放送で知って驚き、旧部下に命じて聞き取り調査を行った。もちろん、各部隊長とも答えはNOであった。」
それで南京大虐殺があったという具体的な証拠はどこにありますかね。30万人が死んだのなら検証可能な名簿があるはずですが、戦後60年たってもそれらしいものは提示されず、日本から合同調査をしようと提案しても拒否していますね。合同調査をされてはまずいことでもあるんでしょうかね。
>これは何を根拠に書かれたモノでしょうか?
常識です。これを否定するような資料はどこにもありません。
>原文の掲載を望みます。日付はいつでしょうかね?と聞いたのですがね。
本当に平和的な占領で無統制の中国軍がいなくなって南京住民は大喜びしていましたね。
「松井大将は上海軍と第10軍とを統轄する中支那派遣軍司令官(当時、中国は支那と呼ばれていた)に任命され、南京攻略戦を指揮した。日本軍は破竹の勢いで当時の首都、南京に迫った。蒋介石、何応欽ら政府と軍の首脳らが南京を脱出したのは12月7日頃である。これと前後して馬市長はじめ公務員も、金持ちもほとんどが南京を脱出した。残るは市民約20万(公称)唐生智将軍ひきいる約5万の国民党軍であった。
大将はこの20万市民の安全と中山陵等史蹟を守るため降伏を勧告するビラを9日、飛行機から城内に散布した。しかし、唐将軍からの回答はなく、10日、正午を期して総攻撃を開始した。松井大将は総攻撃に際して、全軍将兵に軍紀を厳守して皇軍の威信を示せと命じ、同時に国際安全区にいる20万市民の愛護を厳命し、無用の者の立ち入りを厳禁した。
南京城は激戦のすえ13日に陥落したが、唐将軍は前夜、逃走したため、指揮官を失った敗残兵は略奪を欲しいままにし、一般市民の着衣を奪って安全区に逃げ込んだ。 17日、入場式、18日戦死者の慰霊祭が行われた。この時、松井大将は「中国の戦死者も、ともに慰霊しよう」と提案したが師団長から異論が出て取りやめとなった。この時の大将の思いが、後の興亜観音の建立につながるのである。
19日には幕僚数名をともなって城内の清涼山や北極閣に登り、城内を視察、看望した。「概して城内は、ほとんど兵火をまぬがれ市内、安堵の色深し。」と大将は日記に記している。市民約20万を管理していた国際安全委員会のラーベ委員長から安全区内は砲爆撃もなく全員無事であった旨の感謝の書簡があった。大将も安全区の代表らに会い慰労している。
21日の日記には「人民も既に多少づつ帰来せるを見る」とある。人口は1ヶ月後には25万に増加したのである。22日、大将は上海に帰り、2回にわたり、内外記者団と記者会見を行っている。この記者会見でもいわゆる゛南京虐殺”に関する質問など全然なかった。大将がこれを初めて耳にしたのは、終戦直後、アメリカの放送で知って驚き、旧部下に命じて聞き取り調査を行った。もちろん、各部隊長とも答えはNOであった。」
それで南京大虐殺があったという具体的な証拠はどこにありますかね。30万人が死んだのなら検証可能な名簿があるはずですが、戦後60年たってもそれらしいものは提示されず、日本から合同調査をしようと提案しても拒否していますね。合同調査をされてはまずいことでもあるんでしょうかね。
これは メッセージ 4532 (yominokuni56 さん)への返信です.