「1945年12月9日、『対日宣戦布告』
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2005/02/07 20:57 投稿番号: [4481 / 41162]
ちょっと、困ったものですね?
1945年8月15日には日本は無条件降伏をしていますが、中国は、また新たに戦争をしようとしたのでしょうか?
どこの国の歴史なんでしょうか?(笑)
>再読お願いします。
中華民国(国民党蒋介石政権)が対日宣戦布告したのは「1945年12月9日」です。
その前日には、何が発生したでしょうか?
>1937年半ばの、日中両軍激突以来4年半、なぜ中華民国は対日宣戦布告しなかったのか?
(日本に関して言えば「国家間戦争」{宣戦布告有り}ではなく、「事変」{地域紛争}で終わらせたい、という意向があっての事なのですが)
1937年7月7日
北京郊外の 盧溝橋で日中両軍衝突(全面戦争始まる)
11日停戦協定成立
12日海軍軍司令部「対支作戦計画内案」を作成
28日日本軍、華北で総攻撃を開始
1935年以来、日本は華北侵略を企図し、関東軍支配下の冀東、内蒙古両政権と緩衝的な冀察政権(宋哲元)を成立せしめたが、1937年7月7日北京郊外の豊台駐屯の日本軍が冀察政権の第29軍の駐屯地の近傍にある、北京西郊永定河の盧溝橋付近で夜間演習を実施、その終了時に数発の射撃音があり、たまたま一名の兵士が不在(実際は用便中)であった為、豊台の主力部隊が出動し、兵士は約20分後に発見されたが翌日未明、日本軍は中国軍を攻撃し、永定河左岸を制圧し、9日停戦協定が成立、11日協定に調印、中国軍の永定河左岸駐屯禁止、責任者の処罰、謝罪などを定め、19日細目協定にも調印。
しかしながら、日本軍、日本政府は事件不拡大方針を掲げながら、11日関東軍および
内地3個師団の派兵を声明、これにより、中国軍民の抗日意識が高まり、蒋介石軍の国民政府も態度を硬化させ、華北派兵を企てた。日本陸軍内部の強硬派はこれを好機と捉え27日派兵を決定し、28日総攻撃を開始し、ここに日中戦争が始まった。すべて日本側の企図したことである。
1937年8月
13日 上海で日中軍交戦開始、(第二次上海事変)
15日 近衛文麿首相「南京政府断乎 声明」を出す、
日本海軍機南京を渡洋爆撃する
上海派遣軍を「編組」(司令官 松井石根)
29日 南京駐在の欧米5カ国の外交代表、南京空襲に抗議し、爆撃停止を求める抗議書を日本に提出する 。
南京1937年8月15日
この日午前、南京を離れる最後の在南日本大使館員とその家族、日本人居留民団員が下関の埠頭から汽船で長江を渡り、対岸の浦口から津浦(天津〜浦口)線に乗って青島の向けて出発をした。引き揚げる日本人に対して、中国民衆からの危害を加えられることを懸念した中国国民政府は、特別列車を用意士、護衛兵40名を付け、外交部の係官2名を随行させて不祥事の発生を防いだ。一行が丁寧に浦口駅から送り出されて、三時間ほど過ぎた午後3時頃鳴り響く空襲警報のサイレンのうなりと響き渡る爆撃機の轟音に恐怖と混乱に落ちていった。雨雲の間から次々と現れる日本海軍機20機は低高度から市内各所の爆弾を投下し始めた。
南京を爆撃したのは海軍木更津航空隊の新鋭機=96式陸上攻撃機20機であった、。
午前9時10分長崎の大村基地を発進士、東シナ海を横断し、台風による悪天候をおして南京まで、洋上約600kmを4時間で飛翔「南京渡洋爆撃」を敢行したのである。
「我海軍機長駆南京へ/空軍根拠地を爆撃す/敵に甚大の損害を与える」
「我海軍機は長躯南京を襲撃/午後2時から3回に渡り南京付近支那空軍基地に多大な損害を与えた」(東京朝日新聞)
「世界戦史 空前の渡洋爆撃」(雑誌日の出(新潮社発行)
南京渡洋爆撃は戦時国際法「開戦に関する条約」1907年ハーグで締結、(日本は1912年に批准、公布中国も当事国)
*「締約国は理由を付したる開戦宣言の形式または条件つき開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭かつ事前の通告無くして、その相互間に戦争を開始すべからざること」と定めている。日本海軍航空隊は宣戦布告も無しに 中国の首都南京をいきなり渡洋爆撃をしたのはこの「開戦に関する条約」に違反した行為であった。
又、条約付属書「陸戦の法規慣例に関する規則」において第25条防守されない都市の攻撃、防守 せざる都市、村落、住宅、建物はいかなる手段によるもこれを攻撃または砲撃することを得ず」
日本海軍機の南京爆撃は非戦闘員を殺傷、非武装地域への爆弾投下をおこなったことで、同法にも抵触している。
上海事変とは戦争とは呼びたくないことの現れで、単に表現を変えただけでしょう。
日本軍の戦傷者数も4万人を数える激戦であった戦いを言葉だけで、判断するものでしょうか、国家間の戦争であることは明らかですよ。
軍隊を自衛隊というお国柄ですから、や
1945年8月15日には日本は無条件降伏をしていますが、中国は、また新たに戦争をしようとしたのでしょうか?
どこの国の歴史なんでしょうか?(笑)
>再読お願いします。
中華民国(国民党蒋介石政権)が対日宣戦布告したのは「1945年12月9日」です。
その前日には、何が発生したでしょうか?
>1937年半ばの、日中両軍激突以来4年半、なぜ中華民国は対日宣戦布告しなかったのか?
(日本に関して言えば「国家間戦争」{宣戦布告有り}ではなく、「事変」{地域紛争}で終わらせたい、という意向があっての事なのですが)
1937年7月7日
北京郊外の 盧溝橋で日中両軍衝突(全面戦争始まる)
11日停戦協定成立
12日海軍軍司令部「対支作戦計画内案」を作成
28日日本軍、華北で総攻撃を開始
1935年以来、日本は華北侵略を企図し、関東軍支配下の冀東、内蒙古両政権と緩衝的な冀察政権(宋哲元)を成立せしめたが、1937年7月7日北京郊外の豊台駐屯の日本軍が冀察政権の第29軍の駐屯地の近傍にある、北京西郊永定河の盧溝橋付近で夜間演習を実施、その終了時に数発の射撃音があり、たまたま一名の兵士が不在(実際は用便中)であった為、豊台の主力部隊が出動し、兵士は約20分後に発見されたが翌日未明、日本軍は中国軍を攻撃し、永定河左岸を制圧し、9日停戦協定が成立、11日協定に調印、中国軍の永定河左岸駐屯禁止、責任者の処罰、謝罪などを定め、19日細目協定にも調印。
しかしながら、日本軍、日本政府は事件不拡大方針を掲げながら、11日関東軍および
内地3個師団の派兵を声明、これにより、中国軍民の抗日意識が高まり、蒋介石軍の国民政府も態度を硬化させ、華北派兵を企てた。日本陸軍内部の強硬派はこれを好機と捉え27日派兵を決定し、28日総攻撃を開始し、ここに日中戦争が始まった。すべて日本側の企図したことである。
1937年8月
13日 上海で日中軍交戦開始、(第二次上海事変)
15日 近衛文麿首相「南京政府断乎 声明」を出す、
日本海軍機南京を渡洋爆撃する
上海派遣軍を「編組」(司令官 松井石根)
29日 南京駐在の欧米5カ国の外交代表、南京空襲に抗議し、爆撃停止を求める抗議書を日本に提出する 。
南京1937年8月15日
この日午前、南京を離れる最後の在南日本大使館員とその家族、日本人居留民団員が下関の埠頭から汽船で長江を渡り、対岸の浦口から津浦(天津〜浦口)線に乗って青島の向けて出発をした。引き揚げる日本人に対して、中国民衆からの危害を加えられることを懸念した中国国民政府は、特別列車を用意士、護衛兵40名を付け、外交部の係官2名を随行させて不祥事の発生を防いだ。一行が丁寧に浦口駅から送り出されて、三時間ほど過ぎた午後3時頃鳴り響く空襲警報のサイレンのうなりと響き渡る爆撃機の轟音に恐怖と混乱に落ちていった。雨雲の間から次々と現れる日本海軍機20機は低高度から市内各所の爆弾を投下し始めた。
南京を爆撃したのは海軍木更津航空隊の新鋭機=96式陸上攻撃機20機であった、。
午前9時10分長崎の大村基地を発進士、東シナ海を横断し、台風による悪天候をおして南京まで、洋上約600kmを4時間で飛翔「南京渡洋爆撃」を敢行したのである。
「我海軍機長駆南京へ/空軍根拠地を爆撃す/敵に甚大の損害を与える」
「我海軍機は長躯南京を襲撃/午後2時から3回に渡り南京付近支那空軍基地に多大な損害を与えた」(東京朝日新聞)
「世界戦史 空前の渡洋爆撃」(雑誌日の出(新潮社発行)
南京渡洋爆撃は戦時国際法「開戦に関する条約」1907年ハーグで締結、(日本は1912年に批准、公布中国も当事国)
*「締約国は理由を付したる開戦宣言の形式または条件つき開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭かつ事前の通告無くして、その相互間に戦争を開始すべからざること」と定めている。日本海軍航空隊は宣戦布告も無しに 中国の首都南京をいきなり渡洋爆撃をしたのはこの「開戦に関する条約」に違反した行為であった。
又、条約付属書「陸戦の法規慣例に関する規則」において第25条防守されない都市の攻撃、防守 せざる都市、村落、住宅、建物はいかなる手段によるもこれを攻撃または砲撃することを得ず」
日本海軍機の南京爆撃は非戦闘員を殺傷、非武装地域への爆弾投下をおこなったことで、同法にも抵触している。
上海事変とは戦争とは呼びたくないことの現れで、単に表現を変えただけでしょう。
日本軍の戦傷者数も4万人を数える激戦であった戦いを言葉だけで、判断するものでしょうか、国家間の戦争であることは明らかですよ。
軍隊を自衛隊というお国柄ですから、や
これは メッセージ 4476 (samurai_03_japan さん)への返信です.