Re: アメリカのベストセラー
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2012/06/18 21:08 投稿番号: [40021 / 41162]
>その最たるものが戦争捕虜の扱いだった。日本はアメリカ兵やイギリス兵、カナダ兵、 ニュージーランド兵、オランダ兵、オーストラリア兵ら約13万2000人を捕虜にした。
日本は立派だね。
さて、ここで問題です。
支那軍は何人の日本兵を捕虜にしたでしょうか?
きちんと答えなさい。
>「何千人もの捕虜たちが、殴られたり焼かれたり、銃剣で刺されたり、こん棒で殴られたりして殺され、銃殺され、人体実験で殺され、人食いの風習で生きたまま食われた。ごくわずかしか食事が与えられず、不潔な食品や水のために、さらに何千人もの捕虜たちが餓死し、亡くなった」
捕虜を殴ったり焼いたりしたことは滅多になかったが、稀にやったのは朝鮮人軍属だ。
銃殺にはそれ相応の理由があった。
人体実験は無かったので、証言全体が嘘出鱈目だと分かる。
わずかしか食事が与えられないというが、それは日本軍の食料も不足していたからであり、食料輸送船を攻撃したアメリカ軍をはじめとする連合軍側に責任がある。
アメリカ軍が日本の輸送船を国際法に違反して攻撃したから、多くの日本軍将兵が餓死し、当然連合軍捕虜も餓死した。
▼朝鮮人軍属が連合軍捕虜を虐待した資料▼
―――――――
私がくすくす笑い始めたのは、ちょうど私たちの目の前に一人の日本人【注】が立った時だった。彼は「笑ったのは誰だ」と怒鳴って訊いた。このヤップ(Jap)はまさに悪魔のような奴だった。日本の現人神天皇のために直立しているときに笑うとは神聖の冒涜である、と彼は烈火の如く怒った。
私は、もうこれでやられてしまうと観念した。恐怖に震えながらも、私は名乗り出なければならぬと思った。さもなくば、ほかの笑わなかったかもしれない人々が犠牲者となるだろう。私が名乗って前に引き出されたとき、私は目がくらくらして、周囲のすべてが回り始めるのを感じた。恐怖のために耐えがたくなった私の周りを、さまざまな色がぐるぐると、しかもだんだん急速に回転するのだ。ヤップが私を殴り始めたのを記憶に残っている最後の情景として、私は大きな暗い穴に落ち込んでしまった。
バンコン(収容所の所在地)で一緒だった少年の一人、ディック・ポットが私の側に立っていたのだが、彼は後にこう語った。
「ひとつの盗難事件が判明した後、夜中に点呼があった。そのときレオは僕の斜め前に整列していた。レオは笑ったようだ。するとそれを理由に一人の日本警備兵【注】が、(例によって)鉛を詰めたホッケースティックのような棒で、殴って回った。僕もこっぴどくやられた。レオは、列から引き出されると、もうめちゃくちゃに殴られて、全く正気を失った。そう見えた。彼はその後病院へ運ばれたのだが、私にはレオが回復することはもはやないだろうと思われた。」
【注】
「一人の日本人」と「日本警備兵」は同一人物。この男はマツザワ ゼンユーという名を持つ朝鮮人の軍属らしい。彼は些細なことでもすぐホッケースティックで、シャツを剥ぎ取った上半身や耳を打った。オランダ人の間では「ホッケースティック」のあだ名で呼ばれていた。
(別の日本兵の収容者に対する暴行への【注】)
これは多分M.W.デ・ヘールという五十二歳のオランダ人である。この男性は食べ物を「密輸」したということで一九四五年五月、キムラ セイコンという朝鮮人軍属から太い棒で全身を五十回ほど殴られ、肋骨が何本か折れ、八日間独房に入れられた。しかもはじめの三日間は食物も全然与えられなかった。恐らくはこの虐待がもとで、デ・ヘールは六月十六日にカンプの病院で死亡した。このキムラは「殴り屋ヤン」と仇名されるほどカンプ収容者に対して多くの残虐行為を働き、裁判の結果一九四六年十月十一日に死刑となった。日本兵の中で、カドワキ サカエ軍曹だけは例外で、唯一のよき日本人であったとバンコン収容所の記録に特記されている由。
『日本軍強制収容所 心の旅』レオ・ゲレインセ自伝
―――――――
▼日本軍は連合軍捕虜を大切に扱ったが、連合軍は日本軍捕虜を虐待した資料▼
ジョン・ダワー教授
「連合国側の虐殺行為は何ら罪を問われず、免責されたままだ。そして、補虜虐待について言えば、それでなくとも物資不足に喘ぎ、補虜を受け入れるだけの設備も食糧も不足していた日本側がそれでも交戦法規を忠実に守って、大量に投降してくる敵兵を捕虜にしたからこそ様々な問題が生じたのである。 」
日本は立派だね。
さて、ここで問題です。
支那軍は何人の日本兵を捕虜にしたでしょうか?
きちんと答えなさい。
>「何千人もの捕虜たちが、殴られたり焼かれたり、銃剣で刺されたり、こん棒で殴られたりして殺され、銃殺され、人体実験で殺され、人食いの風習で生きたまま食われた。ごくわずかしか食事が与えられず、不潔な食品や水のために、さらに何千人もの捕虜たちが餓死し、亡くなった」
捕虜を殴ったり焼いたりしたことは滅多になかったが、稀にやったのは朝鮮人軍属だ。
銃殺にはそれ相応の理由があった。
人体実験は無かったので、証言全体が嘘出鱈目だと分かる。
わずかしか食事が与えられないというが、それは日本軍の食料も不足していたからであり、食料輸送船を攻撃したアメリカ軍をはじめとする連合軍側に責任がある。
アメリカ軍が日本の輸送船を国際法に違反して攻撃したから、多くの日本軍将兵が餓死し、当然連合軍捕虜も餓死した。
▼朝鮮人軍属が連合軍捕虜を虐待した資料▼
―――――――
私がくすくす笑い始めたのは、ちょうど私たちの目の前に一人の日本人【注】が立った時だった。彼は「笑ったのは誰だ」と怒鳴って訊いた。このヤップ(Jap)はまさに悪魔のような奴だった。日本の現人神天皇のために直立しているときに笑うとは神聖の冒涜である、と彼は烈火の如く怒った。
私は、もうこれでやられてしまうと観念した。恐怖に震えながらも、私は名乗り出なければならぬと思った。さもなくば、ほかの笑わなかったかもしれない人々が犠牲者となるだろう。私が名乗って前に引き出されたとき、私は目がくらくらして、周囲のすべてが回り始めるのを感じた。恐怖のために耐えがたくなった私の周りを、さまざまな色がぐるぐると、しかもだんだん急速に回転するのだ。ヤップが私を殴り始めたのを記憶に残っている最後の情景として、私は大きな暗い穴に落ち込んでしまった。
バンコン(収容所の所在地)で一緒だった少年の一人、ディック・ポットが私の側に立っていたのだが、彼は後にこう語った。
「ひとつの盗難事件が判明した後、夜中に点呼があった。そのときレオは僕の斜め前に整列していた。レオは笑ったようだ。するとそれを理由に一人の日本警備兵【注】が、(例によって)鉛を詰めたホッケースティックのような棒で、殴って回った。僕もこっぴどくやられた。レオは、列から引き出されると、もうめちゃくちゃに殴られて、全く正気を失った。そう見えた。彼はその後病院へ運ばれたのだが、私にはレオが回復することはもはやないだろうと思われた。」
【注】
「一人の日本人」と「日本警備兵」は同一人物。この男はマツザワ ゼンユーという名を持つ朝鮮人の軍属らしい。彼は些細なことでもすぐホッケースティックで、シャツを剥ぎ取った上半身や耳を打った。オランダ人の間では「ホッケースティック」のあだ名で呼ばれていた。
(別の日本兵の収容者に対する暴行への【注】)
これは多分M.W.デ・ヘールという五十二歳のオランダ人である。この男性は食べ物を「密輸」したということで一九四五年五月、キムラ セイコンという朝鮮人軍属から太い棒で全身を五十回ほど殴られ、肋骨が何本か折れ、八日間独房に入れられた。しかもはじめの三日間は食物も全然与えられなかった。恐らくはこの虐待がもとで、デ・ヘールは六月十六日にカンプの病院で死亡した。このキムラは「殴り屋ヤン」と仇名されるほどカンプ収容者に対して多くの残虐行為を働き、裁判の結果一九四六年十月十一日に死刑となった。日本兵の中で、カドワキ サカエ軍曹だけは例外で、唯一のよき日本人であったとバンコン収容所の記録に特記されている由。
『日本軍強制収容所 心の旅』レオ・ゲレインセ自伝
―――――――
▼日本軍は連合軍捕虜を大切に扱ったが、連合軍は日本軍捕虜を虐待した資料▼
ジョン・ダワー教授
「連合国側の虐殺行為は何ら罪を問われず、免責されたままだ。そして、補虜虐待について言えば、それでなくとも物資不足に喘ぎ、補虜を受け入れるだけの設備も食糧も不足していた日本側がそれでも交戦法規を忠実に守って、大量に投降してくる敵兵を捕虜にしたからこそ様々な問題が生じたのである。 」
これは メッセージ 40011 (fuk*g*wa*ohei さん)への返信です.