Re: 「大体、捕虜はせぬ方針なれば」
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2012/03/20 11:06 投稿番号: [39191 / 41162]
反日バカサヨは、中島師団による捕虜虐殺の事実など確認されていなかったのに、「捕虜ハセヌ方針」と記述されたこの日記を証拠として、日本軍が南京で捕虜を片っ端から虐殺したと宣伝した。
しかし、そもそも中島師団が確保した捕虜を殺害した他の資料がなかったどころか、中島師団が確保した大量の支那兵は殺害されずに捕虜として収容された証拠(資料)があるので、この日記を単純に日本軍による捕虜虐殺の証拠とするのことには無理があった。
中島日記の「捕虜ハセヌ方針」の記述については、今でも完全な疑問解消とまではいかないが、概ね以下のような解釈で問題ない。
――――――
(3)本当に処刑されたのか?
中島日記に関して(その一)
http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page028.html
(抜粋)
以上のように中島日記に記載された仙鶴門付近で確保した約7千人の捕虜は、殺害されずに南京に収容されたと考えられます。複数の史料による裏づけがあるということです。
(4)捕虜ハセヌ方針(東中野説)
中島日記に関して(そのニ)
http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page029.html
(抜粋)
では、問題の「捕虜ハセヌ方針」とは、何であったのか。三つのことが考えられる。
まず、銃殺の方針であったという従来の通説である。しかし、銃殺が当初からの方針であったのであれば、すでに述べたように、中島師団長は「大体捕虜にはしない銃殺の方針であったから、投降兵が来るや、これを片端から銃殺しようとするのだが、千、五千、一万の群集ともなると多過ぎて、銃殺することすら出来ない」と記していたことであろう。
ところが、陣中日記の作者は、「銃殺することすら出来ない」とは書かなかった。従って、即時処刑の方針ではなかったことになる。
では、捕虜にする方針であったのか。しかし、これは、言うまでもなく、「捕虜ハセヌ方針」に反する。となると、残るは、投降兵の追放しかない。戦場の投降兵にたいしては、処刑するか、捕虜とする、追放するか、三つの方針しかないからである。
従って、「捕虜ハセヌ方針」とは「投降兵は武装解除後に追放して捕虜にはしない方針」という意味になる。
その「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」という表現から、当初の方針(即ち捕虜にはしないで武装解除してから追放することなど)など、とても遂行できないという悲鳴が聞こえてくるのである。
(5)捕虜ハセヌ方針(南京戦史)
中島日記に関して(その三)
http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page030.html
(抜粋)
以上のように状況を含めて考察すると「捕虜を受け入れるな」という命令の意図が見えてくるのではないでしょうか。常に捕虜を受け入れるな、投降を認めるな、という意味合いではなく、ある限定された状況下においては「勝手に戦闘を停止して投降兵を収容するな、なぜならば軍全体が危機に陥る可能性があるからだ」という内容であることが推察されるわけです。
以上を踏まえて私が個人的に中島日記を意訳するとこうなります。
「軍の方針は、捕虜とは呼ぶな、尋問が終わったら適時解放せよというものだが、一万人もの敵兵が投降してくるとは誰も想定していなかったではないか。武装解除もままならないのでこのままでは釈放もできないし、収容といっても場所、食料の問題もあり大変だ。取り敢えず部隊を増派して野外で監視しているが、このまま延々置いておくわけにもいかない。7千人となると処刑も大変だ。大きな壕があればまとめて放り込んで処刑できるかも知れないが平地だとそうもいかない。数十人単位に小分けして処刑したほうがよいか。どうしたものか」
という感じになると思います。
中島中将個人としては処刑の方向で考えていたようですが、その後戦場が一段落し捕虜の収容が可能と判断されたので、仙鶴門付近の捕虜約7000人は南京城内に護送され収容されたと考えられます。中島中将が捕虜を使役している状況を見て叱責したのは「銃器の管理が杜撰であり危険だ」という意味での叱責であり、捕虜を使役した行為についてはむしろ賞賛していることからも、ことごとく全ての捕虜を殺害する方針ではなかったと考えられます。
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しかし、そもそも中島師団が確保した捕虜を殺害した他の資料がなかったどころか、中島師団が確保した大量の支那兵は殺害されずに捕虜として収容された証拠(資料)があるので、この日記を単純に日本軍による捕虜虐殺の証拠とするのことには無理があった。
中島日記の「捕虜ハセヌ方針」の記述については、今でも完全な疑問解消とまではいかないが、概ね以下のような解釈で問題ない。
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(3)本当に処刑されたのか?
中島日記に関して(その一)
http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page028.html
(抜粋)
以上のように中島日記に記載された仙鶴門付近で確保した約7千人の捕虜は、殺害されずに南京に収容されたと考えられます。複数の史料による裏づけがあるということです。
(4)捕虜ハセヌ方針(東中野説)
中島日記に関して(そのニ)
http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page029.html
(抜粋)
では、問題の「捕虜ハセヌ方針」とは、何であったのか。三つのことが考えられる。
まず、銃殺の方針であったという従来の通説である。しかし、銃殺が当初からの方針であったのであれば、すでに述べたように、中島師団長は「大体捕虜にはしない銃殺の方針であったから、投降兵が来るや、これを片端から銃殺しようとするのだが、千、五千、一万の群集ともなると多過ぎて、銃殺することすら出来ない」と記していたことであろう。
ところが、陣中日記の作者は、「銃殺することすら出来ない」とは書かなかった。従って、即時処刑の方針ではなかったことになる。
では、捕虜にする方針であったのか。しかし、これは、言うまでもなく、「捕虜ハセヌ方針」に反する。となると、残るは、投降兵の追放しかない。戦場の投降兵にたいしては、処刑するか、捕虜とする、追放するか、三つの方針しかないからである。
従って、「捕虜ハセヌ方針」とは「投降兵は武装解除後に追放して捕虜にはしない方針」という意味になる。
その「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」という表現から、当初の方針(即ち捕虜にはしないで武装解除してから追放することなど)など、とても遂行できないという悲鳴が聞こえてくるのである。
(5)捕虜ハセヌ方針(南京戦史)
中島日記に関して(その三)
http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page030.html
(抜粋)
以上のように状況を含めて考察すると「捕虜を受け入れるな」という命令の意図が見えてくるのではないでしょうか。常に捕虜を受け入れるな、投降を認めるな、という意味合いではなく、ある限定された状況下においては「勝手に戦闘を停止して投降兵を収容するな、なぜならば軍全体が危機に陥る可能性があるからだ」という内容であることが推察されるわけです。
以上を踏まえて私が個人的に中島日記を意訳するとこうなります。
「軍の方針は、捕虜とは呼ぶな、尋問が終わったら適時解放せよというものだが、一万人もの敵兵が投降してくるとは誰も想定していなかったではないか。武装解除もままならないのでこのままでは釈放もできないし、収容といっても場所、食料の問題もあり大変だ。取り敢えず部隊を増派して野外で監視しているが、このまま延々置いておくわけにもいかない。7千人となると処刑も大変だ。大きな壕があればまとめて放り込んで処刑できるかも知れないが平地だとそうもいかない。数十人単位に小分けして処刑したほうがよいか。どうしたものか」
という感じになると思います。
中島中将個人としては処刑の方向で考えていたようですが、その後戦場が一段落し捕虜の収容が可能と判断されたので、仙鶴門付近の捕虜約7000人は南京城内に護送され収容されたと考えられます。中島中将が捕虜を使役している状況を見て叱責したのは「銃器の管理が杜撰であり危険だ」という意味での叱責であり、捕虜を使役した行為についてはむしろ賞賛していることからも、ことごとく全ての捕虜を殺害する方針ではなかったと考えられます。
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これは メッセージ 39172 (fuk*g*wa*ohei さん)への返信です.