Re: ◆植民地解放の端緒を開いた大東亜戦争
投稿者: angrygeegee 投稿日時: 2012/02/14 09:44 投稿番号: [38826 / 41162]
1942年に日本軍のマラヤ占領が始まり今年はその70周年になります。
国家主義と鉄拳の日本軍による統治は3年半に及びました。
当時のマラヤ人がどのように扱われたか、日本統治下で苦難やねじれからどれほど多くが逃げたかについてあまりにも多くの話があります。
その時代に生きた4人の人が証言しています。
現在76歳のSeow Boon Horは当時6歳でしたが、ネグリ スンビランのパリット ティンギの彼の村に日本軍がスパイ捜索に来た日のことをはっきりと覚えています。
彼の家族全部が殺戮されましたが、彼だけが臨月を迎えていた母親の機転で彼は母親の体で覆われて、何とか殺戮を免れました。
彼の命を救ったのは母親の犠牲精神でした。
「母親は私に体に覆いかぶさり、剣が母親の体を貫いたとき私にも達しました。3回目に刺されたとき私の横に剣が来て、気絶しました。
気が付いたとき、私を見つけた村の老人がついてくるように言いました。
私は母親を振り返って、行こう、と言いました。
老人はもう死んでいると言い、母親を残して行くように涙目で言いました。
しかし、今の世代の日本人を過去の行為のことで責めることはできない。
もう許していると思う。
多くの人は行いを悔いている。
日本に行ったとき、マラヤに進駐していた4人の元日本兵がひざまずいて許しを乞いました。」
柄物のシャツと黒いズボンをはいたSeow Boon Horはセクション19の自分のミックスライスの屋台の隣のプラスティックのイスに座って、まるで昨日のことのように思い出して以上のように語りました。
600人の村民が銃剣で刺され、わずか6人が逃れました。
2番目は戦争が始まった時12歳で現在83歳のChye Kooi Loongです。
「戦争は中国本土だけだと思っていたのに、日本軍が来たときは夢かと思いました。
日本学校に行っていると毎週米、砂糖、ココナツオイルの配給がもらえました。
学校では日出ずる国の人々は礼儀正しいと教えられましたが実際は正反対で、たくさんの殺戮がありました。
忘れられない事件は村のおじさんが日本の兵隊が鶏を持っていこうとしたのを止めようとして殺されたことです。
鶏で殺されたんですよ。
日本人は絶対に許さない。
彼らがやったことは忘れられないから親しくはなれない。」
3番目は当時ペナンに住んでいた84歳のDatuk Zainul Azizです。
「当時は日本学校に行き働かないと食糧が得られなかった。
病院に採用面接に行ったが13歳だったにもかかわらず医者が採用してくれ負傷した日本兵の治療の助けをし、医学について学んだ。
病院で働いている間、ひどい目にあうことはなかったし食糧や配給を与えられたので悪い印象は持っていない。
家族も日本の船の修理などで働いておりそんなに苦難はなかった。」
4番目は79歳のElijah Tayです。
「8歳の時に日本が侵略してきました。
ゴム農園に3ヶ月隠れました。
母親は父親の中華学校でよくピアノを弾いていましたがそこは閉鎖されました。
ある日ピアノを聞いて日本兵が中に入ってきました。
彼は私の父の友人になりラビスに私立学校を開くのを援助してくれました。
そこで母親は年次コンサートのために生徒に日本の歌を教えました。
歌を聞いて感銘を受け司令官は自分の許可なしに誰も学校に入ることは許さないと命令しました。
ほかのところでは日本兵の殺戮、強奪、レイプがありました。
家族に起こったことは奇跡以外の何物でもありません。」
アストロ55チャンネル(ヒストリー チャンネル)で2月15日午後10時に“マラヤを占領したライジングサン”というドキュメンタリーが放送されます。
戦争の生き証人も80歳代を迎えていますが、今なお恨みが消えていない人もいることには、またその言い伝えが残されていることにも、留意する必要あり。
国家主義と鉄拳の日本軍による統治は3年半に及びました。
当時のマラヤ人がどのように扱われたか、日本統治下で苦難やねじれからどれほど多くが逃げたかについてあまりにも多くの話があります。
その時代に生きた4人の人が証言しています。
現在76歳のSeow Boon Horは当時6歳でしたが、ネグリ スンビランのパリット ティンギの彼の村に日本軍がスパイ捜索に来た日のことをはっきりと覚えています。
彼の家族全部が殺戮されましたが、彼だけが臨月を迎えていた母親の機転で彼は母親の体で覆われて、何とか殺戮を免れました。
彼の命を救ったのは母親の犠牲精神でした。
「母親は私に体に覆いかぶさり、剣が母親の体を貫いたとき私にも達しました。3回目に刺されたとき私の横に剣が来て、気絶しました。
気が付いたとき、私を見つけた村の老人がついてくるように言いました。
私は母親を振り返って、行こう、と言いました。
老人はもう死んでいると言い、母親を残して行くように涙目で言いました。
しかし、今の世代の日本人を過去の行為のことで責めることはできない。
もう許していると思う。
多くの人は行いを悔いている。
日本に行ったとき、マラヤに進駐していた4人の元日本兵がひざまずいて許しを乞いました。」
柄物のシャツと黒いズボンをはいたSeow Boon Horはセクション19の自分のミックスライスの屋台の隣のプラスティックのイスに座って、まるで昨日のことのように思い出して以上のように語りました。
600人の村民が銃剣で刺され、わずか6人が逃れました。
2番目は戦争が始まった時12歳で現在83歳のChye Kooi Loongです。
「戦争は中国本土だけだと思っていたのに、日本軍が来たときは夢かと思いました。
日本学校に行っていると毎週米、砂糖、ココナツオイルの配給がもらえました。
学校では日出ずる国の人々は礼儀正しいと教えられましたが実際は正反対で、たくさんの殺戮がありました。
忘れられない事件は村のおじさんが日本の兵隊が鶏を持っていこうとしたのを止めようとして殺されたことです。
鶏で殺されたんですよ。
日本人は絶対に許さない。
彼らがやったことは忘れられないから親しくはなれない。」
3番目は当時ペナンに住んでいた84歳のDatuk Zainul Azizです。
「当時は日本学校に行き働かないと食糧が得られなかった。
病院に採用面接に行ったが13歳だったにもかかわらず医者が採用してくれ負傷した日本兵の治療の助けをし、医学について学んだ。
病院で働いている間、ひどい目にあうことはなかったし食糧や配給を与えられたので悪い印象は持っていない。
家族も日本の船の修理などで働いておりそんなに苦難はなかった。」
4番目は79歳のElijah Tayです。
「8歳の時に日本が侵略してきました。
ゴム農園に3ヶ月隠れました。
母親は父親の中華学校でよくピアノを弾いていましたがそこは閉鎖されました。
ある日ピアノを聞いて日本兵が中に入ってきました。
彼は私の父の友人になりラビスに私立学校を開くのを援助してくれました。
そこで母親は年次コンサートのために生徒に日本の歌を教えました。
歌を聞いて感銘を受け司令官は自分の許可なしに誰も学校に入ることは許さないと命令しました。
ほかのところでは日本兵の殺戮、強奪、レイプがありました。
家族に起こったことは奇跡以外の何物でもありません。」
アストロ55チャンネル(ヒストリー チャンネル)で2月15日午後10時に“マラヤを占領したライジングサン”というドキュメンタリーが放送されます。
戦争の生き証人も80歳代を迎えていますが、今なお恨みが消えていない人もいることには、またその言い伝えが残されていることにも、留意する必要あり。
これは メッセージ 38780 (newdendenmaru さん)への返信です.