東南アジアの戦争博物館と対照的な遊就館
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2012/01/21 06:47 投稿番号: [38313 / 41162]
JEATH博物館は、タイ国のカーンチャナブリーにある。
この博物館は、太平洋戦争中に 日本軍の 指示によって
泰緬鉄道建設のために強制労働に従事した 捕虜に関する
資料の保存・展示を行っている。 博物館名は 日本(J)、
イギリス(E)、オーストラリア(A)と アメリカ(A)、
タイ(T)、オランダ(H) の頭文字を並べて付けられた。
JをDに変えると 「DEATH(死)」 が連想できる。
実際、最初は DEATH という案だったが、タイの
国民性に合わないということで 現在の名になったという。
なお、泰緬鉄道は 別名「死の鉄路」 とも呼ばれていた。
館内には、再現された 鉄道建設時の連合国軍捕虜収容所、
捕虜による絵画作品など 多数の資料が 展示されている。
泰緬鉄道はバンコクの西、ノンプラドック駅からビルマの
タンビュザヤまでの 延長415キロの 鉄道のことだ。
この鉄道を 一躍有名にしたのは、「クワイ川鉄橋」 だ。
捕虜虐待、過酷な強制労働の実体験に基づいて 書かれた
『戦場に架ける橋』という作品で 世界的に知られている。
泰緬鉄道の建設には 主に東南アジアの日本軍占領地から
動員された「ロームシャ」(中国、インドネシア、ビルマ、
マレーシア、インド、シンガポール、タイ)と連合軍捕虜
(米、英、オランダ、オーストラリア) が投入された。
その数は、じつに40万人にも達した と言われている。
ジャングル地帯での酷使と コレラ、マラリアなど伝染病で
人員の半数近くが 未帰還だった とされている。
現地で 「死の鉄路」 とも呼ばれているのは、このためだ。
日本軍は、ミッドウェー戦に敗北し、ビルマへの海上補給が
困難になったため、ビルマ経由の蒋介石政権への補給ルート
切断と、インパール作戦への戦略的補給路が「使命」だった。
しかし、インパール作戦の敗北で 所期の目的は 果たせず、
皮肉にも、日本軍がビルマから敗走するための経路になった。
手当ても受けられず、半死半生のまま 貨車で運ばれてくる
惨めな日本軍敗残兵の姿に、工事を生きのびた捕虜達ですら
哀れみ、食糧を与えたと 現地では語り継がれている。
JEATH博物館は、その戦争の悲劇を 現代に伝えている。
展示資料の中に、連合軍の捕虜が 収容所内の生活を描いた
スケッチブックがある。空腹のあまり食べ物を盗んだ捕虜を、
ロープで縛って吊るしたり、座らせた 足の間に棒を入れて
立てなくしている拷問の絵もある。
映画『戦場に架ける橋』には、捕虜を 炎天下に立たせたり、
重営倉に閉じ込めるなどいった 厳しい懲罰の場面があるが、
現実に比べれば、まだ 生やさしい。
東京九段の戦争賛美神社の展示施設で、泰緬鉄道関係の展示を
観たことがある。 当時「活躍した」という機関車両が飾られ、
はじめに建設を試みた英国は 工事の困難さから 断念したが
日本軍は迅速に工事が行い、1年3ヶ月という驚異的な早さで
開通させたなどと 誇らしげに 説明していた。
そこでは、捕虜や 現地労務者たちの苦難は 見えてこない。
ヤスクニ「神社」と称する 戦争賛美施設の 展示場では
歴史の真実に向き合うことを怖れる卑怯な姿勢しか見出せない。
この博物館は、太平洋戦争中に 日本軍の 指示によって
泰緬鉄道建設のために強制労働に従事した 捕虜に関する
資料の保存・展示を行っている。 博物館名は 日本(J)、
イギリス(E)、オーストラリア(A)と アメリカ(A)、
タイ(T)、オランダ(H) の頭文字を並べて付けられた。
JをDに変えると 「DEATH(死)」 が連想できる。
実際、最初は DEATH という案だったが、タイの
国民性に合わないということで 現在の名になったという。
なお、泰緬鉄道は 別名「死の鉄路」 とも呼ばれていた。
館内には、再現された 鉄道建設時の連合国軍捕虜収容所、
捕虜による絵画作品など 多数の資料が 展示されている。
泰緬鉄道はバンコクの西、ノンプラドック駅からビルマの
タンビュザヤまでの 延長415キロの 鉄道のことだ。
この鉄道を 一躍有名にしたのは、「クワイ川鉄橋」 だ。
捕虜虐待、過酷な強制労働の実体験に基づいて 書かれた
『戦場に架ける橋』という作品で 世界的に知られている。
泰緬鉄道の建設には 主に東南アジアの日本軍占領地から
動員された「ロームシャ」(中国、インドネシア、ビルマ、
マレーシア、インド、シンガポール、タイ)と連合軍捕虜
(米、英、オランダ、オーストラリア) が投入された。
その数は、じつに40万人にも達した と言われている。
ジャングル地帯での酷使と コレラ、マラリアなど伝染病で
人員の半数近くが 未帰還だった とされている。
現地で 「死の鉄路」 とも呼ばれているのは、このためだ。
日本軍は、ミッドウェー戦に敗北し、ビルマへの海上補給が
困難になったため、ビルマ経由の蒋介石政権への補給ルート
切断と、インパール作戦への戦略的補給路が「使命」だった。
しかし、インパール作戦の敗北で 所期の目的は 果たせず、
皮肉にも、日本軍がビルマから敗走するための経路になった。
手当ても受けられず、半死半生のまま 貨車で運ばれてくる
惨めな日本軍敗残兵の姿に、工事を生きのびた捕虜達ですら
哀れみ、食糧を与えたと 現地では語り継がれている。
JEATH博物館は、その戦争の悲劇を 現代に伝えている。
展示資料の中に、連合軍の捕虜が 収容所内の生活を描いた
スケッチブックがある。空腹のあまり食べ物を盗んだ捕虜を、
ロープで縛って吊るしたり、座らせた 足の間に棒を入れて
立てなくしている拷問の絵もある。
映画『戦場に架ける橋』には、捕虜を 炎天下に立たせたり、
重営倉に閉じ込めるなどいった 厳しい懲罰の場面があるが、
現実に比べれば、まだ 生やさしい。
東京九段の戦争賛美神社の展示施設で、泰緬鉄道関係の展示を
観たことがある。 当時「活躍した」という機関車両が飾られ、
はじめに建設を試みた英国は 工事の困難さから 断念したが
日本軍は迅速に工事が行い、1年3ヶ月という驚異的な早さで
開通させたなどと 誇らしげに 説明していた。
そこでは、捕虜や 現地労務者たちの苦難は 見えてこない。
ヤスクニ「神社」と称する 戦争賛美施設の 展示場では
歴史の真実に向き合うことを怖れる卑怯な姿勢しか見出せない。
これは メッセージ 38312 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.