大量餓死で英霊を増産した皇軍の体質(16)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2011/12/30 21:38 投稿番号: [38106 / 41162]
前述してきたように、日本軍戦没者の過半数が
餓死だった。
戦闘で、華々しく戦い 玉のごとく 砕け散ったのではなく、
飢えと 病気にさいなまれ、やせ衰えて 無念の涙を流し、
密林の中で 次々と倒れ、野垂れ死んだのだ。
こうした 悲惨な結果をもたらした原因を考察してみよう。
まず 第1に、補給無視の作戦計画が あげられる。
軍隊が行動し戦闘するためには 兵員と軍需品の輸送手段と、
弾薬、資材、食糧などの軍需品を供給する補給が欠かせない。
ところが、日本軍は 補給を きわめて軽視していた。
作戦目的ばかりを重視して補給を無視した無謀な作戦ばかりが
各地で実行され、結果として 多数の将兵を餓死に追いやった。
ガ島敗戦の際に今村第八方面軍司令官が、百武第十七軍司令官を
慰めて、この敗戦は「饑餓の自滅」であり、「全く軍部中央部の
過誤による」もので、これは「補給と関連なしに、戦略戦術だけ
を研究し教育していた陸軍多年の弊風が累をなし」たものだと
語っているのは、まさに 至言であると思う。
第2に、兵站軽視の作戦指導にあったと言えるだろう。
日本陸軍は、伝統的に 対露(ロシア革命後は対ソ連)戦争を
第一の目標として 編成され、訓練を続けてきた 経緯がある。
したがって、その予想戦場は 北満州やシベリアの広野だった。
軍需品や食糧の補給を担うのは 後方部隊の輜重部隊であり、
その部隊は、戦時に特設する馬を 主な輸送力としていた。
陸軍は 農林省と共同して 全国の農家に馬の飼育を奨励し、
戦時には この馬を徴発する計画を 立てていた。
41年7月、日本軍部は 独ソ戦の推移いかんによっては
対ソ戦を始めようとし、陸軍は 大規模な動員を行なった。
これが いわゆる関東軍特殊演習(関特演)だった。
こうした満州への大動員を行なっておきながら、南方攻略へと
大きく国策が転換されたが、後方軽視という状況が 現れた。
南方作戦を具体化にあたり、大本営の兵站に関する基本構想は
「原則として満州の集積軍需品は抽出せず、中国大陸に対する
補給は最大限に削減して余裕を作り、必要な場合は中国方面
からさらに引き抜いて南方用作戦資材を充足する」だった。
(参考:防衛研究所所蔵『戦史叢書・マレー侵攻作戦』)
つまり、満州に動員して大量蓄積した軍需物資は、対ソ戦に備え
そのままとし、支那派遣軍から一部を引き抜いて間に合わせよう
という 甘い考えしか 持っていなかったのだ。
「極力内地ノ負担及船舶輸送力ノ軽減ヲ図リ、最小ノ軍需資材ヲ
最有効ニ活用シ現地ニ於テ創意自製自活シ得ルモノハ原則トシテ
之ニ據ルヲ旨トセリ」(南方軍参謀作戦資料)という具合だ。
しかし、この方針には 欠点があった。
兵要地誌の調査不足による 現地自活主義の破綻は、
やがて明らかになり、大本営の見通しの甘さが露呈する。
気の毒などは 第一線の兵隊たちだった。
彼らは、情報収集力のない軍の失敗による犠牲者だった。
戦闘で、華々しく戦い 玉のごとく 砕け散ったのではなく、
飢えと 病気にさいなまれ、やせ衰えて 無念の涙を流し、
密林の中で 次々と倒れ、野垂れ死んだのだ。
こうした 悲惨な結果をもたらした原因を考察してみよう。
まず 第1に、補給無視の作戦計画が あげられる。
軍隊が行動し戦闘するためには 兵員と軍需品の輸送手段と、
弾薬、資材、食糧などの軍需品を供給する補給が欠かせない。
ところが、日本軍は 補給を きわめて軽視していた。
作戦目的ばかりを重視して補給を無視した無謀な作戦ばかりが
各地で実行され、結果として 多数の将兵を餓死に追いやった。
ガ島敗戦の際に今村第八方面軍司令官が、百武第十七軍司令官を
慰めて、この敗戦は「饑餓の自滅」であり、「全く軍部中央部の
過誤による」もので、これは「補給と関連なしに、戦略戦術だけ
を研究し教育していた陸軍多年の弊風が累をなし」たものだと
語っているのは、まさに 至言であると思う。
第2に、兵站軽視の作戦指導にあったと言えるだろう。
日本陸軍は、伝統的に 対露(ロシア革命後は対ソ連)戦争を
第一の目標として 編成され、訓練を続けてきた 経緯がある。
したがって、その予想戦場は 北満州やシベリアの広野だった。
軍需品や食糧の補給を担うのは 後方部隊の輜重部隊であり、
その部隊は、戦時に特設する馬を 主な輸送力としていた。
陸軍は 農林省と共同して 全国の農家に馬の飼育を奨励し、
戦時には この馬を徴発する計画を 立てていた。
41年7月、日本軍部は 独ソ戦の推移いかんによっては
対ソ戦を始めようとし、陸軍は 大規模な動員を行なった。
これが いわゆる関東軍特殊演習(関特演)だった。
こうした満州への大動員を行なっておきながら、南方攻略へと
大きく国策が転換されたが、後方軽視という状況が 現れた。
南方作戦を具体化にあたり、大本営の兵站に関する基本構想は
「原則として満州の集積軍需品は抽出せず、中国大陸に対する
補給は最大限に削減して余裕を作り、必要な場合は中国方面
からさらに引き抜いて南方用作戦資材を充足する」だった。
(参考:防衛研究所所蔵『戦史叢書・マレー侵攻作戦』)
つまり、満州に動員して大量蓄積した軍需物資は、対ソ戦に備え
そのままとし、支那派遣軍から一部を引き抜いて間に合わせよう
という 甘い考えしか 持っていなかったのだ。
「極力内地ノ負担及船舶輸送力ノ軽減ヲ図リ、最小ノ軍需資材ヲ
最有効ニ活用シ現地ニ於テ創意自製自活シ得ルモノハ原則トシテ
之ニ據ルヲ旨トセリ」(南方軍参謀作戦資料)という具合だ。
しかし、この方針には 欠点があった。
兵要地誌の調査不足による 現地自活主義の破綻は、
やがて明らかになり、大本営の見通しの甘さが露呈する。
気の毒などは 第一線の兵隊たちだった。
彼らは、情報収集力のない軍の失敗による犠牲者だった。
これは メッセージ 38105 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.