Re: 南京などで残虐行為が多発した背景⑤
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2011/10/21 19:21 投稿番号: [37224 / 41162]
>南京事件や慰安婦問題などの
歴史の事実に向き合うことを恐れ、
記録や証言などの資料を すべて「ウソ」、「デタラメ」 と否定し、
証言は、それが『いつ記録されたものか、本当かどうかの検討ができるか』という2点がとても大事です。日本人の中にも南京大虐殺を目撃したとか虐殺したという証言をした人もいました。しかし、これまで本名で証言をした人は例外なくすべて嘘であったことが確認されています。例えば、元軍人であれば同じ部隊の人がまだ生きていたりしたので、周囲の人の証言や記録を調査すれば、彼は南京にいなかったとか作り話であるということなどが判明します。
>(社会評論社「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて・元兵士102人の証言」P-350,351より)
『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて――元兵士102人の証言』というトンデモ本は匿名(仮名)の証言集だが、バレバレの嘘だらけ。
例えば、南京で強姦しまくったと証言した鬼頭久二(第16師団歩兵第33連隊 第1大隊)(仮名)は、計算すると南京戦当時11歳だったことになるが、帝国陸軍に11歳の少年兵は居なかった。
>(ジョン・ラーベ著「南京の真実」P-110より)
安全区国際委員長だったラーベも虐殺は1件も目撃しなかった。
ラーべの日記や手紙の中ではラーべ本人が殺人現場を見た記述は一つもない。
ラーベは、1937年12月17日に、日本軍による破壊や犯罪が極めて少数で秩序が回復した旨の『第6号文書』を日本大使館宛に送っていた。
ラーベは、安全区の自宅に、現金を一杯に詰めたトランクを幾つも持っていた支那軍将校の龍大佐と周大佐を潜伏させていた。
これは、中立と、安全区の保護を責務とする安全区国際委員長としては、言語道断であり、この行為自体が支那軍のための工作活動だ。
1938年1月9日に南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、2月10日、自分の目で実情を確かめた上で漢口のドイツ大使館に、ラーベが語る日本軍の暴行事件について、「暴行事件と言っても全て支那人から一方的に聞いているだけ」と書き送っている。
>武装を解除し、投降した捕虜全員を、ただちに 殺害することは、
国際法違反である以前に、人道に反する残虐行為に ほかならない。
ひとつの部隊だけでも、上記のような 数日にもわたる 組織的な
大量殺害が 実行されたのだから、日本軍全体での 捕虜殺害は、
いったい どれほどの規模だったのだろうか―― 想像を絶する。
二〇〇七年三月の「南京問題小委員会」に講師として参加された青山学院大学名誉教授で国際法が専門の佐藤和男博士は、
『偕行南京戦史』に記載されている捕虜の処断を検証した。
第九師団歩兵連隊による安全区掃討作戦において摘出した便衣兵六六七〇名の処断。
第十六師団歩兵第三三連隊の太平門、下関、獅子山付近で捉えた捕虜三〇九六人の処断。
第十六師団歩兵第三〇旅団が南京西部地区警備中に捕らえた敗残兵数千人の処断。
第百十四師団歩兵第六六連隊第一大隊が雨花門外で捕らえた捕虜一六五七人の処断。
山田支隊が幕府山付近で捕らえた捕虜数千人の処断。
以上、右列記した事例について佐藤博士は、いずれも戦時国際法違反でないと断定し、
【現在、南京問題研究者が素人判断で捕虜の処断を「虐殺」とする研究に対して苦言を呈していた】
記録や証言などの資料を すべて「ウソ」、「デタラメ」 と否定し、
証言は、それが『いつ記録されたものか、本当かどうかの検討ができるか』という2点がとても大事です。日本人の中にも南京大虐殺を目撃したとか虐殺したという証言をした人もいました。しかし、これまで本名で証言をした人は例外なくすべて嘘であったことが確認されています。例えば、元軍人であれば同じ部隊の人がまだ生きていたりしたので、周囲の人の証言や記録を調査すれば、彼は南京にいなかったとか作り話であるということなどが判明します。
>(社会評論社「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて・元兵士102人の証言」P-350,351より)
『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて――元兵士102人の証言』というトンデモ本は匿名(仮名)の証言集だが、バレバレの嘘だらけ。
例えば、南京で強姦しまくったと証言した鬼頭久二(第16師団歩兵第33連隊 第1大隊)(仮名)は、計算すると南京戦当時11歳だったことになるが、帝国陸軍に11歳の少年兵は居なかった。
>(ジョン・ラーベ著「南京の真実」P-110より)
安全区国際委員長だったラーベも虐殺は1件も目撃しなかった。
ラーべの日記や手紙の中ではラーべ本人が殺人現場を見た記述は一つもない。
ラーベは、1937年12月17日に、日本軍による破壊や犯罪が極めて少数で秩序が回復した旨の『第6号文書』を日本大使館宛に送っていた。
ラーベは、安全区の自宅に、現金を一杯に詰めたトランクを幾つも持っていた支那軍将校の龍大佐と周大佐を潜伏させていた。
これは、中立と、安全区の保護を責務とする安全区国際委員長としては、言語道断であり、この行為自体が支那軍のための工作活動だ。
1938年1月9日に南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、2月10日、自分の目で実情を確かめた上で漢口のドイツ大使館に、ラーベが語る日本軍の暴行事件について、「暴行事件と言っても全て支那人から一方的に聞いているだけ」と書き送っている。
>武装を解除し、投降した捕虜全員を、ただちに 殺害することは、
国際法違反である以前に、人道に反する残虐行為に ほかならない。
ひとつの部隊だけでも、上記のような 数日にもわたる 組織的な
大量殺害が 実行されたのだから、日本軍全体での 捕虜殺害は、
いったい どれほどの規模だったのだろうか―― 想像を絶する。
二〇〇七年三月の「南京問題小委員会」に講師として参加された青山学院大学名誉教授で国際法が専門の佐藤和男博士は、
『偕行南京戦史』に記載されている捕虜の処断を検証した。
第九師団歩兵連隊による安全区掃討作戦において摘出した便衣兵六六七〇名の処断。
第十六師団歩兵第三三連隊の太平門、下関、獅子山付近で捉えた捕虜三〇九六人の処断。
第十六師団歩兵第三〇旅団が南京西部地区警備中に捕らえた敗残兵数千人の処断。
第百十四師団歩兵第六六連隊第一大隊が雨花門外で捕らえた捕虜一六五七人の処断。
山田支隊が幕府山付近で捕らえた捕虜数千人の処断。
以上、右列記した事例について佐藤博士は、いずれも戦時国際法違反でないと断定し、
【現在、南京問題研究者が素人判断で捕虜の処断を「虐殺」とする研究に対して苦言を呈していた】
これは メッセージ 37112 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.