南京への道2
投稿者: shoujouji 投稿日時: 2011/06/10 10:07 投稿番号: [36088 / 41162]
山田支隊 (第13師団第103旅団) の歩兵第65連隊に属する堀越文雄氏も、
こんな陣中日誌を残しています。
〔10月6日〕※ (引用者註 11月6日の誤りと思われる) 帰家宅東方にいたる。
支那人女子供のとりこあり、銃殺す。むごたらしきかな、これ戦いなり。
〔11月9日〕捕虜をひき来る、油座氏これを切る。夜に近く女二人子供ひとり、
これも突かれたり。
(中略)
〔11月20日〕昨夜まで頑強なりし敵も今は退脚 (退却) し、ところどころに
敗残兵の残れるあり。とある部落に正規兵を発見し、吾はじめてこれを斬る。
まったく作法どおりの斬れ工合なり。刀少しく刃こぼれせり。惜しきかな心平らか
にして人を斬りたる時の気持ちと思われず、吾ながら驚かれる心の落ちつきなり、
西徐野に一泊す。
敵はほとんど退脚す、残れるものは使役に服せしめ、又は銃殺、断首等をなす。
いかりの心わかず、心きおうことなし。血潮を見ても心平生 (ママ) を失うこと
なし、これすなわち戦場心理ならんか。
(後略)
(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P98-99より)
これらはあくまでも一例に過ぎません。他にも似たような事例は数多くありました。
日本軍は、中国軍の敗残兵も捕虜も、一般民衆もほとんど見境なく、手当たり次第に
進撃路上の中国人を殺していったのです。そのもっとも著名な例となったのが、
野田・向井の二人の少尉による「百人斬り競争」でしたが、これはたまたま新聞に
大々的に取り上げられてしまったことが後の戦犯としての処罰につながってしまった
だけで、戦場には無数の野田、向井がいたことは間違いないのです。
日中戦争の頃、南京近郊の6県 (南京特別市) には、あわせて150万人もの人口が
あったと言われています。そして、そのかなりの部分は、日本軍が迫ってきても
避難することができませんでした。当時農村ではラジオも新聞もなく、日本軍の
接近を正確に知ることができなかったこと、家財道具や家畜などを連れて逃げる
交通手段はなかったこと、家畜や家財道具を残して身ひとつで逃げても、何日も
避難し続けるだけの食糧を買うお金もないことなどが理由でした。また、避難する
場合でも、殺されたり連行される可能性の高い成人男性が真っ先に逃げ、それから
女子どもが逃げ、殺される可能性が低い (と、中国の内戦での経験から農民たちが
考えていた) 老人は、たいていの場合家財産を守るために村落に残っていたのです。
こうした集落に残っていた一般民衆が、どれだけ殺されたのか。その全体像は判然
としません。小さな村々のことですから、1ヶ所ではそれぞれ数人から多くても
数十人の規模の虐殺ですが、それを各部隊が連日のように繰り返していたのです。
全体でどれほどの数になるのか、はっきりしません。ただ、スマイス博士が事件の
直後から翌年にかけて実施した「南京地区における戦争被害」によると、農村部
206世帯に1世帯の抽出調査を行った結果から、近郊6県の半分で26,870人と
いう犠牲者数を出しています。近郊6県全体ではこれより大きな数字になる可能性
がある一方、抽出調査という手法から誤差の範囲も大きいものと思われます。
http://homepage3.nifty.com/ryo-folklore/intisol/nankin.htm
こんな陣中日誌を残しています。
〔10月6日〕※ (引用者註 11月6日の誤りと思われる) 帰家宅東方にいたる。
支那人女子供のとりこあり、銃殺す。むごたらしきかな、これ戦いなり。
〔11月9日〕捕虜をひき来る、油座氏これを切る。夜に近く女二人子供ひとり、
これも突かれたり。
(中略)
〔11月20日〕昨夜まで頑強なりし敵も今は退脚 (退却) し、ところどころに
敗残兵の残れるあり。とある部落に正規兵を発見し、吾はじめてこれを斬る。
まったく作法どおりの斬れ工合なり。刀少しく刃こぼれせり。惜しきかな心平らか
にして人を斬りたる時の気持ちと思われず、吾ながら驚かれる心の落ちつきなり、
西徐野に一泊す。
敵はほとんど退脚す、残れるものは使役に服せしめ、又は銃殺、断首等をなす。
いかりの心わかず、心きおうことなし。血潮を見ても心平生 (ママ) を失うこと
なし、これすなわち戦場心理ならんか。
(後略)
(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P98-99より)
これらはあくまでも一例に過ぎません。他にも似たような事例は数多くありました。
日本軍は、中国軍の敗残兵も捕虜も、一般民衆もほとんど見境なく、手当たり次第に
進撃路上の中国人を殺していったのです。そのもっとも著名な例となったのが、
野田・向井の二人の少尉による「百人斬り競争」でしたが、これはたまたま新聞に
大々的に取り上げられてしまったことが後の戦犯としての処罰につながってしまった
だけで、戦場には無数の野田、向井がいたことは間違いないのです。
日中戦争の頃、南京近郊の6県 (南京特別市) には、あわせて150万人もの人口が
あったと言われています。そして、そのかなりの部分は、日本軍が迫ってきても
避難することができませんでした。当時農村ではラジオも新聞もなく、日本軍の
接近を正確に知ることができなかったこと、家財道具や家畜などを連れて逃げる
交通手段はなかったこと、家畜や家財道具を残して身ひとつで逃げても、何日も
避難し続けるだけの食糧を買うお金もないことなどが理由でした。また、避難する
場合でも、殺されたり連行される可能性の高い成人男性が真っ先に逃げ、それから
女子どもが逃げ、殺される可能性が低い (と、中国の内戦での経験から農民たちが
考えていた) 老人は、たいていの場合家財産を守るために村落に残っていたのです。
こうした集落に残っていた一般民衆が、どれだけ殺されたのか。その全体像は判然
としません。小さな村々のことですから、1ヶ所ではそれぞれ数人から多くても
数十人の規模の虐殺ですが、それを各部隊が連日のように繰り返していたのです。
全体でどれほどの数になるのか、はっきりしません。ただ、スマイス博士が事件の
直後から翌年にかけて実施した「南京地区における戦争被害」によると、農村部
206世帯に1世帯の抽出調査を行った結果から、近郊6県の半分で26,870人と
いう犠牲者数を出しています。近郊6県全体ではこれより大きな数字になる可能性
がある一方、抽出調査という手法から誤差の範囲も大きいものと思われます。
http://homepage3.nifty.com/ryo-folklore/intisol/nankin.htm
これは メッセージ 36086 (shoujouji さん)への返信です.