南京への道
投稿者: shoujouji 投稿日時: 2011/06/10 09:34 投稿番号: [36086 / 41162]
http://homepage3.nifty.com/ryo-folklore/intisol/nankin.htm
南京大虐殺とは呼ばれていますが、実際には虐殺は南京市の市街地だけで
おこったのではありません。日本軍の進撃路上の各所で起こっています。
たとえば、12月4日、南京市街まで60km以上離れた句容県の倪塘村に第16
師団歩兵第20連隊が侵攻し、そのまま宿営しました。村民の多くは既に
逃亡していたのですが、逃げ遅れた村民と他村からの避難民約40人を一軒の
家に押し込めて、火を付け、焼き殺しました。加えて翌朝には、他村からの
避難民と中国軍の敗残兵あわせて80人ほどを捕縛し、機関銃で全員を殺害
しています。あわせて120人。
更に同じ句容県内の本湖村では12月5日朝、日本軍が接近してきたのを遠方
から見て国民党軍と誤認した村民が、槍や刀をもって整列して歓迎しようと
したところを捕縛され、約40人が酒醸造小屋に押し込まれて、火を放たれ、
一人が逃げ延びた他は全員が殺されています。
日本側では、歩兵第20連隊に所属した牧野信夫上等兵の残した陣中日誌に、
この間の進撃路上の「掃討」の実態が綴られています。
〔11月22日〕道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見ずら
い(ママ)様子でのびていたのも可哀想である。
橋の付近には5,6個の支那兵の死体がやかれたり、あるいは首をはねられ
て倒れている。話では砲兵隊の将校がためし切りをやったそうである。(※)
〔11月26日〕午前 (午後の誤り)4時、第2大隊は喚声を上げ勇ましく
敵陣地に突進し、敵第一線を奪取。住民は家を焼かれ、逃げるに道なく、
失心状態で右往左往しているもまったく可哀想だがしかたがない。午後6時、
完全に占領する。7時、道路上に各隊集結を終わり、付近部落の掃討がおこ
なわれた。自分たちが集結している場所に4名の敗残兵がぼやっと現れたので
早速捕らえようとしたが、1名は残念ながら逃がし、あと3名は捕らえた。
兵士たちは早速2名をエンビ (小型シャベル) や十字鍬で叩き殺し、1名は
本部に連行、通訳が調べたのち銃殺した。
8時半、宿舎に就く。3小隊はさっそく豚を殺していた。全くすばやくする
のにはおそれ入った。
〔11月27日〕支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家に隠れていた
敗残兵をなぐり殺す。支那人2名を連れて11時、出発す・・・・・・・・
鉄道路線上を前進す。休憩中に5、6軒の藁ぶきの家を焼いた。炎は天高く
もえあがり、気持ちがせいせいした。
〔11月28日〕午前11時、大隊長の命令により下野班長以下6名は小銃を
持ち、残敵の掃討に行く。その前にある橋梁に来たとき、橋本与一は船で
逃げる5、6名を発見、照準をつけ1名射殺。掃討はすでにこのときから始ま
ったのである。自分たちが前進するにつれ支那人の若いのが先を競って逃げて
いく。何のために逃げるのかわからないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。
部落の12、3家に付火すると、たちまち火は全村を包み、全くの火の海である。
老人が2、3人いて可哀想だったが、命令だから仕方がない。次、次と三部落を
全焼さす。そのうえ5、6人を射殺する。意気揚々とあがる。
〔11月29日〕武進 (常州市に属する) は抗日・排日の根拠地であるため全町
掃討し、老若男女をとわず全員銃殺す。敵は無錫の線で破れてより、まったく
浮き足だって戦意がないのか、あるいは後方の強固な陣地にたてこもるのかわか
らないが、全く見えない。
〔12月1日〕途中の部落を全部掃討し、また船で逃げる2名の敗残兵を射殺し、
あるいは火を付けて部落を焼き払って前進する。呂城の集落に入ったおりすぐに
徴発に一家屋に入ったところ3名の義勇兵らしきものを発見。2名はクリークに
蹴落とし、射殺する。1名は大隊本部に連行し手渡す。
( 後略)
(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P87-89より)
南京大虐殺とは呼ばれていますが、実際には虐殺は南京市の市街地だけで
おこったのではありません。日本軍の進撃路上の各所で起こっています。
たとえば、12月4日、南京市街まで60km以上離れた句容県の倪塘村に第16
師団歩兵第20連隊が侵攻し、そのまま宿営しました。村民の多くは既に
逃亡していたのですが、逃げ遅れた村民と他村からの避難民約40人を一軒の
家に押し込めて、火を付け、焼き殺しました。加えて翌朝には、他村からの
避難民と中国軍の敗残兵あわせて80人ほどを捕縛し、機関銃で全員を殺害
しています。あわせて120人。
更に同じ句容県内の本湖村では12月5日朝、日本軍が接近してきたのを遠方
から見て国民党軍と誤認した村民が、槍や刀をもって整列して歓迎しようと
したところを捕縛され、約40人が酒醸造小屋に押し込まれて、火を放たれ、
一人が逃げ延びた他は全員が殺されています。
日本側では、歩兵第20連隊に所属した牧野信夫上等兵の残した陣中日誌に、
この間の進撃路上の「掃討」の実態が綴られています。
〔11月22日〕道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見ずら
い(ママ)様子でのびていたのも可哀想である。
橋の付近には5,6個の支那兵の死体がやかれたり、あるいは首をはねられ
て倒れている。話では砲兵隊の将校がためし切りをやったそうである。(※)
〔11月26日〕午前 (午後の誤り)4時、第2大隊は喚声を上げ勇ましく
敵陣地に突進し、敵第一線を奪取。住民は家を焼かれ、逃げるに道なく、
失心状態で右往左往しているもまったく可哀想だがしかたがない。午後6時、
完全に占領する。7時、道路上に各隊集結を終わり、付近部落の掃討がおこ
なわれた。自分たちが集結している場所に4名の敗残兵がぼやっと現れたので
早速捕らえようとしたが、1名は残念ながら逃がし、あと3名は捕らえた。
兵士たちは早速2名をエンビ (小型シャベル) や十字鍬で叩き殺し、1名は
本部に連行、通訳が調べたのち銃殺した。
8時半、宿舎に就く。3小隊はさっそく豚を殺していた。全くすばやくする
のにはおそれ入った。
〔11月27日〕支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家に隠れていた
敗残兵をなぐり殺す。支那人2名を連れて11時、出発す・・・・・・・・
鉄道路線上を前進す。休憩中に5、6軒の藁ぶきの家を焼いた。炎は天高く
もえあがり、気持ちがせいせいした。
〔11月28日〕午前11時、大隊長の命令により下野班長以下6名は小銃を
持ち、残敵の掃討に行く。その前にある橋梁に来たとき、橋本与一は船で
逃げる5、6名を発見、照準をつけ1名射殺。掃討はすでにこのときから始ま
ったのである。自分たちが前進するにつれ支那人の若いのが先を競って逃げて
いく。何のために逃げるのかわからないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。
部落の12、3家に付火すると、たちまち火は全村を包み、全くの火の海である。
老人が2、3人いて可哀想だったが、命令だから仕方がない。次、次と三部落を
全焼さす。そのうえ5、6人を射殺する。意気揚々とあがる。
〔11月29日〕武進 (常州市に属する) は抗日・排日の根拠地であるため全町
掃討し、老若男女をとわず全員銃殺す。敵は無錫の線で破れてより、まったく
浮き足だって戦意がないのか、あるいは後方の強固な陣地にたてこもるのかわか
らないが、全く見えない。
〔12月1日〕途中の部落を全部掃討し、また船で逃げる2名の敗残兵を射殺し、
あるいは火を付けて部落を焼き払って前進する。呂城の集落に入ったおりすぐに
徴発に一家屋に入ったところ3名の義勇兵らしきものを発見。2名はクリークに
蹴落とし、射殺する。1名は大隊本部に連行し手渡す。
( 後略)
(「南京事件」笠原十九司 岩波新書530 P87-89より)
これは メッセージ 36085 (shoujouji さん)への返信です.