Re: coffeeBAKAemon - 戦争をやめよう?
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2010/05/10 01:00 投稿番号: [33337 / 41162]
>>シナが戦争を始めて、日本が何度も何度も「やめよう。やめよう。」と言ったのに
>それって、いつ、どこで、誰が言ったのか教えてくださいね。
主なものだけでも、幾つもあるだ。
まず、盧溝橋事件の後、停戦協定を結んだが、支那が反故にした。
21 盧溝橋事件3 停戦交渉
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/27141197.html
22 盧溝橋事件4 中国停戦協定破る
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/27176700.html
次に、上海戦の前の1937年8月9日、日本は、通州で日本人居留民約260人が大虐殺されてから10日も経っていないのに、支那へ和平を持ちかけた。
しかも、その条件は信じられないほど大幅に譲歩したものだった。
この時の日本側の和平案は以下のとおり。
――――――――
(日本の和平案)
・塘沽協定の解消
・梅津−何應欽協定の解消
・土肥原−秦徳純協定の解消
・冀察政権の解消
・冀東特殊貿易の廃止
・非武装地帯海面の中国側密輸取締りの恢復
・華北における自由飛行の廃止
・支那側が要求すれば上海停戦協定をも解消
――――――――
日本が如何に戦争をやめたがっていたかは、この大幅に譲歩した和平案を見れば明白である。
ところが、8月9日に予定されていた和平会談は、当日、支那が海軍陸戦隊の大山中尉を上海の虹橋飛行場近くで惨殺してぶち壊した。
実は、この日は、揚子江の奥地から居留民が陸戦隊ともども上海に引揚げて来ていた日だった。
大山中尉は、周辺地区の巡回に行き、虹橋飛行場近くで、進出中の保安隊に遭遇して殺された。
日本側は支那に抗議したが、日本に責任をなすりつけて取り合わなかった。
支那いわく「大山中尉が支那兵が止めるのも聞かず、衛兵を拳銃で撃ち殺して飛行場に押し入ったので射殺した」。
大山中尉は拳銃を持っておらず、運転手の斉藤水兵は持ってはいたがホルスターに入ったままで殺されていたのに。
大山中尉と運転手の斉藤水兵の車は機関銃で蜂の巣にされ、中尉は車から引きずり出され、銃剣で胸を刺され、かつ大刀で頭を割られていた。
上海戦が終わった後、1937年11月2日、広田外相は正式にドイツ大使に仲介を依頼し、日本側の条件を提示した。
しかし、その和平案も蒋介石が蹴った。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/27488212.html
日本は、南京陥落の後、またぞろ和平の話を持ちかけました。条件は前より少し厳しくなりますけど。参謀本部は最初、前のままでやるつもりだったのですが、内務大臣から「これで国民が納得するかね」と言われ、やむなく修正したのです。
そうすると蒋介石は案の定、講和を拒否しました。
1938年1月2日、ドイツ大使トラウトマンが返事を聞きに来ても蒋介石は会わず、変わりに王寵恵外交部長が会いました。
王部長が、「独大使が回答を催促している」と報告すると、蒋介石は
「日方所提条件等於征服與滅亡我国、與其屈服而亡、不如戦敗而亡之為愈」
(日本の条件は我が国を屈服して滅亡させる為のものだ、屈服して滅びるよりは、戦って滅びる方がよい)
と大声でわめき、王部長に「応即厳詞拒絶」 (断固、拒否せよ) と命じました。
その翌日、国民政府は正式に次のように決定します。
「否認将派代表赴南京與日方議和」 (日本との和平交渉の為に代表を南京に派遣することは認めない)
明確な和平拒否です。
>それって、いつ、どこで、誰が言ったのか教えてくださいね。
主なものだけでも、幾つもあるだ。
まず、盧溝橋事件の後、停戦協定を結んだが、支那が反故にした。
21 盧溝橋事件3 停戦交渉
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/27141197.html
22 盧溝橋事件4 中国停戦協定破る
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/27176700.html
次に、上海戦の前の1937年8月9日、日本は、通州で日本人居留民約260人が大虐殺されてから10日も経っていないのに、支那へ和平を持ちかけた。
しかも、その条件は信じられないほど大幅に譲歩したものだった。
この時の日本側の和平案は以下のとおり。
――――――――
(日本の和平案)
・塘沽協定の解消
・梅津−何應欽協定の解消
・土肥原−秦徳純協定の解消
・冀察政権の解消
・冀東特殊貿易の廃止
・非武装地帯海面の中国側密輸取締りの恢復
・華北における自由飛行の廃止
・支那側が要求すれば上海停戦協定をも解消
――――――――
日本が如何に戦争をやめたがっていたかは、この大幅に譲歩した和平案を見れば明白である。
ところが、8月9日に予定されていた和平会談は、当日、支那が海軍陸戦隊の大山中尉を上海の虹橋飛行場近くで惨殺してぶち壊した。
実は、この日は、揚子江の奥地から居留民が陸戦隊ともども上海に引揚げて来ていた日だった。
大山中尉は、周辺地区の巡回に行き、虹橋飛行場近くで、進出中の保安隊に遭遇して殺された。
日本側は支那に抗議したが、日本に責任をなすりつけて取り合わなかった。
支那いわく「大山中尉が支那兵が止めるのも聞かず、衛兵を拳銃で撃ち殺して飛行場に押し入ったので射殺した」。
大山中尉は拳銃を持っておらず、運転手の斉藤水兵は持ってはいたがホルスターに入ったままで殺されていたのに。
大山中尉と運転手の斉藤水兵の車は機関銃で蜂の巣にされ、中尉は車から引きずり出され、銃剣で胸を刺され、かつ大刀で頭を割られていた。
上海戦が終わった後、1937年11月2日、広田外相は正式にドイツ大使に仲介を依頼し、日本側の条件を提示した。
しかし、その和平案も蒋介石が蹴った。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/27488212.html
日本は、南京陥落の後、またぞろ和平の話を持ちかけました。条件は前より少し厳しくなりますけど。参謀本部は最初、前のままでやるつもりだったのですが、内務大臣から「これで国民が納得するかね」と言われ、やむなく修正したのです。
そうすると蒋介石は案の定、講和を拒否しました。
1938年1月2日、ドイツ大使トラウトマンが返事を聞きに来ても蒋介石は会わず、変わりに王寵恵外交部長が会いました。
王部長が、「独大使が回答を催促している」と報告すると、蒋介石は
「日方所提条件等於征服與滅亡我国、與其屈服而亡、不如戦敗而亡之為愈」
(日本の条件は我が国を屈服して滅亡させる為のものだ、屈服して滅びるよりは、戦って滅びる方がよい)
と大声でわめき、王部長に「応即厳詞拒絶」 (断固、拒否せよ) と命じました。
その翌日、国民政府は正式に次のように決定します。
「否認将派代表赴南京與日方議和」 (日本との和平交渉の為に代表を南京に派遣することは認めない)
明確な和平拒否です。
これは メッセージ 33251 (fukagawatohei さん)への返信です.