Re: 松井稔「日本鬼子」と中帰連
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2009/05/25 03:30 投稿番号: [28488 / 41162]
>ハア?彼は当時軍属の子供で新京からの脱出列車第一号に乗ったといっているではないか。君の好きな「一次資料」だ。(笑)
何歳のときだよ?
(笑)
>ここでも「悲劇の体験記」が相当数あることがうかがえる。これらは「一次資料」(あるいはそれに近いもの)だろう。(笑)
視点が違っていて真実を理解せず、誤解があったというのが、ポイントだ。
猿脳クンが貼り付けているサイトでもちゃんと説明しているだろう。(笑)
(猿脳クンが貼り付けているサイトより一部抜粋)
その神話とは「関東軍は邦人を見棄てて逃げた」「関東軍と満鉄は自分の家族を先に逃がした」と言うものですね。
まず第一点には「視点の違い」があげられます。
当時の満州には連日連夜どこかの都市が灰燼に帰していた本土と違い空襲が殆どなく、僅かに中国大陸から飛来したB-29が昭和19年7月29日鞍山に約20機、9月8日鞍山・本渓湖に約100機、9月26日鞍山・大連・本渓湖に約90機が襲来した程度でした。
余談ながら、この空襲にビビったのか重要機関や軍需工場をソ連に近い北方へ移そうとしていたという事実もあるようです。
無論満州の一番の脅威はソ連ですが、その脅威からは精強百万関東軍が守ってくれる−しかし関東軍の実態は先程述べたとおり−と思っていました。
と言うことで、「本土より『王道楽土』満州の方が安全だ」と言う空気すらあったようです。
そして満州に住む邦人はその地で生計を立てていますし、今まで築いた財産もあるはずですから、突然ソ連が参戦したからといって生計も財産も全て捨てて着の身着のままに持てるだけの荷物を持って逃げる為に集合しなさいと言われてもいまいちピンと来なかったのではないのでしょうか。
しかし、明確な上下関係があり命令に従うことが職業である軍人・軍属は「集まれ」と言われたら「集まる」のが仕事ですから、その家族も警急参集は容易であったでしょう。
また軍人・軍属の家族は満州に土着した邦人と違い身軽であった事もあげられます。
関東軍は9日にソ連侵攻を知ると即座に満鉄に命令して臨時ダイヤの避難列車を仕立て、避難序列は「民→官→軍」であったそうです。
しかし、前述のように満州は安全と考えられていたことや生活基盤や財産を有する為に邦人は集まりません。
そうしている間も関東軍将兵らの絶望的な勇戦敢闘は続きソ連軍は着々と迫ってくるわけで、臨時ダイヤの避難列車を空のまま発車させる事はできず、ダイヤの都合上遅らせるわけにもいかない。
そうした一刻の猶予もない状況下ではやむを得ず、緊急参集が容易な軍人・軍属と満鉄職員の家族を主体に一番列車に乗せ、新京の場合は11日1340に平壌に向けて出発したが、その後待ち受けていたのは苦難な平壌での生活であった、多くの家族が結局飢えや病気で亡くなった。
これは メッセージ 28460 (mokneybrain123 さん)への返信です.
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