南京で日本兵は何を見たのか (8)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2008/09/17 07:52 投稿番号: [26043 / 41162]
これまでは、南京攻略戦に参加した陸軍関係者の陣中記録を引用した。
ここで 海軍の艦上爆撃機搭乗員だった奥宮正武大尉 (敗戦時中佐) の
証言を見てみよう。
奥宮大尉は、南京上空で撃墜された海軍機の搭乗員の遺体を捜索するため、
南京市内を移動する最中に「処刑」の現場を目撃していた。
これは、南京入城式から1週間以上も経過した市街の目撃談であり、
虐殺は、入城式が終わっても 一向に収まらなかったことを示している。
(前略)下関にはかなり大規模な停車場と開源碼頭 があった。
そこで、その付近を見回っているうちに、陸軍部隊が多数の中国人を
文字通り虐殺している現場を見た。
碼頭の最も下流の部分は、揚子江にそって平坦な岸壁があり、
やや広い敷地を挟んで倉庫群があった。そして、その倉庫群の中に、
約30人の中国人を乗せた無蓋のトラックが次々と消えていった。
不思議に思ったので、何が起こっているかを確かめようと、警戒中の
陸軍の哨兵にことわって、構内にはいった。
私が海軍の軍服を着た将校であったこと、海軍の車から降りてきたこと、
軍刀や拳銃で身を固めていたためであろう。私の動きを阻止する者は
いなかった。また付近には報道関係者などの姿はなかった。
構内の広場に入って見ると、両手を後ろ手に縛られた中国人十数名が、
江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、軍刀や銃剣で惨殺された
のち、揚子江上に投棄されていた
(中略)
12月27日、この日は市内の西部を重点的に見回る予定であった。
が、前々日の光景があまりにも鮮明に記憶に残っていたので、
念のために、まず、再び下関に行くことにした。
下関の処刑場に近づくと、この日もまた、城内の方から、
中国人を乗せたトラックが続々とやってきて、倉庫地帯に消えていた。
再び、警戒中の哨兵にことわって、門を入ったところ、
前々日と同じような処刑が行われていた。そこで、ある種の疑問が生じた。
それは、「多数の中国人を、大した混乱もなく、どうしてここまで連れて
くることができるか」ということであった。
そこで、処刑場の入口付近にいた一人の下士官に、その理由を尋ねた。
ところが、彼は何のためらいもなく、
「城内で、戦場の後片付けをさせている中国人に、“腹のすいた者は手を
上げよ”と言って、手を上げた者を食事の場所に連れていくかのように
して、トラックに乗せているとのことです」と説明してくれた。
そこで、更に、「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」
と質問したところ、「上官から、弾薬を節約するために、そうするように
命じられているからです」との答えが返ってきた。
このような処刑が、南京占領から2週間近くを経た後の25日と27日に
手際よく行われていた。もっとも、26日と25日前と27日後にどのような
処刑が行われていたかは分からなかったが 、2日間のことから察して、
それが戦場にありがちな、一時的な、興奮状態での敵対行動であるとは
私には思われなかった。
この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動であるように
感じた。私は、この2日間に下関で見た合計約20台分の、言いかえれば、
少なくとも合計500人以上の中国人の処刑だけでも、大虐殺であった、
と信じている。
もっとも、どれだけの被害者があれば大虐殺であるかについては、
人それぞれに見解の相違があるかも知れないが。
それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体のこととも
考え合わせて、正確な数字は分からなかったが、莫大な数の中国人の
犠牲者があったのではないか、と考えざるをえなかった。
(出典:「私の見た南京事件」奥宮正武PHP研究所 P33〜39)
ここで 海軍の艦上爆撃機搭乗員だった奥宮正武大尉 (敗戦時中佐) の
証言を見てみよう。
奥宮大尉は、南京上空で撃墜された海軍機の搭乗員の遺体を捜索するため、
南京市内を移動する最中に「処刑」の現場を目撃していた。
これは、南京入城式から1週間以上も経過した市街の目撃談であり、
虐殺は、入城式が終わっても 一向に収まらなかったことを示している。
(前略)下関にはかなり大規模な停車場と開源碼頭 があった。
そこで、その付近を見回っているうちに、陸軍部隊が多数の中国人を
文字通り虐殺している現場を見た。
碼頭の最も下流の部分は、揚子江にそって平坦な岸壁があり、
やや広い敷地を挟んで倉庫群があった。そして、その倉庫群の中に、
約30人の中国人を乗せた無蓋のトラックが次々と消えていった。
不思議に思ったので、何が起こっているかを確かめようと、警戒中の
陸軍の哨兵にことわって、構内にはいった。
私が海軍の軍服を着た将校であったこと、海軍の車から降りてきたこと、
軍刀や拳銃で身を固めていたためであろう。私の動きを阻止する者は
いなかった。また付近には報道関係者などの姿はなかった。
構内の広場に入って見ると、両手を後ろ手に縛られた中国人十数名が、
江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、軍刀や銃剣で惨殺された
のち、揚子江上に投棄されていた
(中略)
12月27日、この日は市内の西部を重点的に見回る予定であった。
が、前々日の光景があまりにも鮮明に記憶に残っていたので、
念のために、まず、再び下関に行くことにした。
下関の処刑場に近づくと、この日もまた、城内の方から、
中国人を乗せたトラックが続々とやってきて、倉庫地帯に消えていた。
再び、警戒中の哨兵にことわって、門を入ったところ、
前々日と同じような処刑が行われていた。そこで、ある種の疑問が生じた。
それは、「多数の中国人を、大した混乱もなく、どうしてここまで連れて
くることができるか」ということであった。
そこで、処刑場の入口付近にいた一人の下士官に、その理由を尋ねた。
ところが、彼は何のためらいもなく、
「城内で、戦場の後片付けをさせている中国人に、“腹のすいた者は手を
上げよ”と言って、手を上げた者を食事の場所に連れていくかのように
して、トラックに乗せているとのことです」と説明してくれた。
そこで、更に、「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」
と質問したところ、「上官から、弾薬を節約するために、そうするように
命じられているからです」との答えが返ってきた。
このような処刑が、南京占領から2週間近くを経た後の25日と27日に
手際よく行われていた。もっとも、26日と25日前と27日後にどのような
処刑が行われていたかは分からなかったが 、2日間のことから察して、
それが戦場にありがちな、一時的な、興奮状態での敵対行動であるとは
私には思われなかった。
この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動であるように
感じた。私は、この2日間に下関で見た合計約20台分の、言いかえれば、
少なくとも合計500人以上の中国人の処刑だけでも、大虐殺であった、
と信じている。
もっとも、どれだけの被害者があれば大虐殺であるかについては、
人それぞれに見解の相違があるかも知れないが。
それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体のこととも
考え合わせて、正確な数字は分からなかったが、莫大な数の中国人の
犠牲者があったのではないか、と考えざるをえなかった。
(出典:「私の見た南京事件」奥宮正武PHP研究所 P33〜39)
これは メッセージ 26041 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.