南京で日本兵は何を見たのか (3)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2008/09/16 20:12 投稿番号: [26014 / 41162]
先に引用した中島日記は、師団長であり
中将だった人物の記述だ。
現場に直接行って 自ら手をくだして 殺していたわけではないだろう。
現場で見聞したわけではないじゃないか、という難癖もあるかもしれない
ので、もう一つ 別の日記を紹介しておきたい。
第13師団山田支隊に所属した 現場指揮官の日記も残っている。
次に引用するのは、第13師団歩兵第65聯隊第4中隊の少尉であった
宮本省吾という人物の日記だ。
出典は、『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団
山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)134頁所収。
これは 南京陥落後の 1937年12月16日の記述だ。
「警戒の厳重は益々加はり。」
「それでも午前十時に第二中隊と衛兵を交代し、一安心す」
中隊が捕虜が脱走しないよう見張っていたのだが、衛兵を交代して
ちょっと一安心だ ということだが、「しかしそれも束の間で」、
「午食事中に俄に火災起り、非常なる騒ぎとなり、三分の一程延焼す」
捕虜を収容していた場所で火事が起き、大騒ぎになったらしい。
で、この捕虜を いったい、どうするのか。
このままだと 手間がかかり、食事も与えなければいけない。それで、
「午后三時、大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜約三千を揚子江岸に
引率し、これを射殺す。戦場ならでは出来ず、又見れぬ光景である」
と記している。
捕虜を監視しているのが大変だから、殺してしまおうということになり、
揚子江岸に引率していって 射殺した、ということだ。
次は 12月17日、翌日のものだ。
この日は、南京での「入城式」という行事が 行われている。
「本日は一部は南京入城式に参加」、これは 映像でも残っている。
一部分は 南京入城に参加したのだが、「大部は捕虜兵の処分に任ず」。
つまり 大部分の兵隊には 捕虜の処分を命じたということだ。
「小官は八時半出発、南京に行軍。午后晴れの南京入城式に参加」
「荘厳なる史的光景を目のあたり見る事が出来た」。
この人物は 将校であるため、入城式に参加できたのだ。
しかし、午後には 帰ってきて、
「夕方ようやく帰り、直ちに捕虜兵の処分に加はり、出発す」
ということで、南京入城式が行われているその当日、
一方では、揚子江岸で 捕虜を大量に処分していたことが判る。
「二万以上の事とて、ついに大失態に会い、友軍にも 多数死傷者を
出してしまった。中隊死者一、傷者二に達す」 と記している。
これは どういうことかと言うと、多くの捕虜を機関銃で撃ったが、
日本軍側が ぐるっと囲んで撃ったものだから、向こう側にいる日本兵に
当たってしまった。 “大失態”とは、そのことを言っているのだ。
取り囲んで味方を撃ってしまい、それによって死んだ者もいた。
「中隊死者一、傷者二に達す」というのだから、確かに大失態だ。
翌12月18日、「昨日来の出来事にて、暁方ようやく寝に就く」とある。
射殺で時間がかかって、明け方までかかり、それでようやく寝に就いた。
「起床する間もなく昼食をとる様である。午后、敵死体の片付けをなす」
「暗くなるも終らず、明日又なす事にして引き上ぐ。風寒し」。
前日一日かけて射殺をし、死体の片付け(揚子江に流すこと)をした。
しかし 一日やっても終わらなくて、また明日やることにした、
と言うのだから、死体は 膨大な数だった ということを示している。
「二万人以上の事」と、この宮本少尉は聞いていた というのだ。
12月19日になると、「昨日に引続き、早朝より死体の処分に従事す」
「午后四時迄かかる」と 書いている。
この日も 揚子江に遺体を流す作業をやっていた と言うのだ。
これらを見ると、17日の南京入城の前日から組織的に捕虜殺害が行われ、
19日までの4日間、この13師団は 一生懸命に 捕虜の遺体を「処理」
つまり 揚子江に流す作業を続けていた ということが判る。
南京虐殺の正確な犠牲者数が 諸説あって判らない というのは、
まさに、ここに原因があると言えるだろう。
無秩序に殺した遺体を、どんどん 大河に流してしまった。
こんな状況が ずっと人目に晒されるのは まずいので、
大急ぎで 遺体を流すということをやった ために、
また、誰も 正確な記録を付けているわけでもないので、
そこで亡くなった人の数が どれくらいかが 正確に判らないのだ。
この日記は、確かに 現場の指揮官の記録であり 重要な史料だ。
現場に直接行って 自ら手をくだして 殺していたわけではないだろう。
現場で見聞したわけではないじゃないか、という難癖もあるかもしれない
ので、もう一つ 別の日記を紹介しておきたい。
第13師団山田支隊に所属した 現場指揮官の日記も残っている。
次に引用するのは、第13師団歩兵第65聯隊第4中隊の少尉であった
宮本省吾という人物の日記だ。
出典は、『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団
山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)134頁所収。
これは 南京陥落後の 1937年12月16日の記述だ。
「警戒の厳重は益々加はり。」
「それでも午前十時に第二中隊と衛兵を交代し、一安心す」
中隊が捕虜が脱走しないよう見張っていたのだが、衛兵を交代して
ちょっと一安心だ ということだが、「しかしそれも束の間で」、
「午食事中に俄に火災起り、非常なる騒ぎとなり、三分の一程延焼す」
捕虜を収容していた場所で火事が起き、大騒ぎになったらしい。
で、この捕虜を いったい、どうするのか。
このままだと 手間がかかり、食事も与えなければいけない。それで、
「午后三時、大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜約三千を揚子江岸に
引率し、これを射殺す。戦場ならでは出来ず、又見れぬ光景である」
と記している。
捕虜を監視しているのが大変だから、殺してしまおうということになり、
揚子江岸に引率していって 射殺した、ということだ。
次は 12月17日、翌日のものだ。
この日は、南京での「入城式」という行事が 行われている。
「本日は一部は南京入城式に参加」、これは 映像でも残っている。
一部分は 南京入城に参加したのだが、「大部は捕虜兵の処分に任ず」。
つまり 大部分の兵隊には 捕虜の処分を命じたということだ。
「小官は八時半出発、南京に行軍。午后晴れの南京入城式に参加」
「荘厳なる史的光景を目のあたり見る事が出来た」。
この人物は 将校であるため、入城式に参加できたのだ。
しかし、午後には 帰ってきて、
「夕方ようやく帰り、直ちに捕虜兵の処分に加はり、出発す」
ということで、南京入城式が行われているその当日、
一方では、揚子江岸で 捕虜を大量に処分していたことが判る。
「二万以上の事とて、ついに大失態に会い、友軍にも 多数死傷者を
出してしまった。中隊死者一、傷者二に達す」 と記している。
これは どういうことかと言うと、多くの捕虜を機関銃で撃ったが、
日本軍側が ぐるっと囲んで撃ったものだから、向こう側にいる日本兵に
当たってしまった。 “大失態”とは、そのことを言っているのだ。
取り囲んで味方を撃ってしまい、それによって死んだ者もいた。
「中隊死者一、傷者二に達す」というのだから、確かに大失態だ。
翌12月18日、「昨日来の出来事にて、暁方ようやく寝に就く」とある。
射殺で時間がかかって、明け方までかかり、それでようやく寝に就いた。
「起床する間もなく昼食をとる様である。午后、敵死体の片付けをなす」
「暗くなるも終らず、明日又なす事にして引き上ぐ。風寒し」。
前日一日かけて射殺をし、死体の片付け(揚子江に流すこと)をした。
しかし 一日やっても終わらなくて、また明日やることにした、
と言うのだから、死体は 膨大な数だった ということを示している。
「二万人以上の事」と、この宮本少尉は聞いていた というのだ。
12月19日になると、「昨日に引続き、早朝より死体の処分に従事す」
「午后四時迄かかる」と 書いている。
この日も 揚子江に遺体を流す作業をやっていた と言うのだ。
これらを見ると、17日の南京入城の前日から組織的に捕虜殺害が行われ、
19日までの4日間、この13師団は 一生懸命に 捕虜の遺体を「処理」
つまり 揚子江に流す作業を続けていた ということが判る。
南京虐殺の正確な犠牲者数が 諸説あって判らない というのは、
まさに、ここに原因があると言えるだろう。
無秩序に殺した遺体を、どんどん 大河に流してしまった。
こんな状況が ずっと人目に晒されるのは まずいので、
大急ぎで 遺体を流すということをやった ために、
また、誰も 正確な記録を付けているわけでもないので、
そこで亡くなった人の数が どれくらいかが 正確に判らないのだ。
この日記は、確かに 現場の指揮官の記録であり 重要な史料だ。
これは メッセージ 26012 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.