南京で日本兵は何を見たのか (2)
投稿者: wadatumi_voice21 投稿日時: 2008/09/16 19:20 投稿番号: [26012 / 41162]
現場で、そこに居た者が
何を見たのか、ということが重要だ。
当時、南京大虐殺の現場を 当然のことながら 多くの日本人が見ていた。
その多くは 日本兵であるが、中には 従軍記者もいたはずだ。
しかし 当時の記者が、それを 記録に残せるはずがなかった。
戦争と言論の統制というのは 常に セットになっており、
そこで見たことを 新聞記者は そのまま書けないようになっていた。
特に 当時の日本軍の言論統制は 徹底していたのだ。
仮に 記事にしたところで 採用されないわけだから、
最初から記事にすることさえなかった というのが実態だった。
当時の日本の新聞には、南京での虐殺の報告は 載せられていない。
しかし、載せられていないから、日本人が 何も見なかったのか
と言えば 決して そうではない。
南京という都市は、揚子江に面しており、日本軍は これを南方、東方、
さらに揚子江の北側からも侵攻し、まさに包囲する形で布陣していった。
南京の東の方から侵攻していったのは、16師団だった。
その師団長である 中島今朝吾の日記が 残されている。
以下、出典は 「南京攻略戦『中島師団長日記』」
(『歴史と人物 増刊 秘史・太平洋戦争』1984年)261頁から引用する。
日記は、1937年12月13日のものだ。中島は 師団長であるから、当然、
師団司令部で指揮を執っているわけで、この13日は南京陥落の日であり、
南京のすぐ外側に 司令部があったと思われる。
「一、本日正午、高山剣士来着す」
「時あたかも捕虜七名あり」 「直ちに試し斬りを為さしむ」。
まず 司令部に連れて来た捕虜 7名を試し斬りさせたと言う。
その「剣士」の腕前を確かめるだけのために 捕虜を斬らせたのだ。
「到るところに捕虜を見、到底その始末に堪えざる程なり」。
投降した中国兵が大勢すぎて 始末に負えない、ということだ。
「大体、捕虜はせぬ方針なれば」
「片端より之を片付くることとなしたれども、中々実行は敏速には出来ず」
国際法上、戦時において捕虜を確保した方が それを保護する義務がある。
しかし、捕虜にはしない方針、と言うのだから 義務など一切ないわけだ。
捕虜にせず、片っ端から片付けることにした、ということだ。
「一、佐々木部隊」──これは 16師団に属している大隊だ。
「佐々木部隊だけにて処理せしもの約一万五千、太平門に於ける守備の
一中隊長が処理せしもの約一三〇〇、その仙鶴門付近に集結したるもの
約七、八千人あり。尚続々投降し来る」 一個大隊は 約800人だが、
その人数で 1万5千人の捕虜を 「処理した」と言っている。
また 一中隊は200人ぐらいだと思われるが、それで1300人ほどを
「処理した」、と言っているのだ。
さらに、どんどん捕虜が増えてきて、
「この七、八千人これを片付くるには、相当大なる壕を要し」
壕というのは、つまり 穴のことだが、
「中々見当らず。一案としては百、二百に分割したる後、適当の箇所に
誘(いざな)いて処理する予定なり」。
16師団は 内陸の方面から攻めていたため、辺りには「河」がない。
そうすると「処理する」というのは、穴に埋めてしまう ということだ。
7〜8千人の人間を埋める穴はないから、分割して埋めるというわけだ。
こういう遺体は、のちに掘り出されたものが発見されている。
ここでは 計画的に、最初から捕虜にしないで殺害して埋めてしまおう
ということを、師団長自身が言っているのだから、まさに捕虜虐殺は
偶発的ではなく、日本軍の方針であった ということが理解できる。
当時、南京大虐殺の現場を 当然のことながら 多くの日本人が見ていた。
その多くは 日本兵であるが、中には 従軍記者もいたはずだ。
しかし 当時の記者が、それを 記録に残せるはずがなかった。
戦争と言論の統制というのは 常に セットになっており、
そこで見たことを 新聞記者は そのまま書けないようになっていた。
特に 当時の日本軍の言論統制は 徹底していたのだ。
仮に 記事にしたところで 採用されないわけだから、
最初から記事にすることさえなかった というのが実態だった。
当時の日本の新聞には、南京での虐殺の報告は 載せられていない。
しかし、載せられていないから、日本人が 何も見なかったのか
と言えば 決して そうではない。
南京という都市は、揚子江に面しており、日本軍は これを南方、東方、
さらに揚子江の北側からも侵攻し、まさに包囲する形で布陣していった。
南京の東の方から侵攻していったのは、16師団だった。
その師団長である 中島今朝吾の日記が 残されている。
以下、出典は 「南京攻略戦『中島師団長日記』」
(『歴史と人物 増刊 秘史・太平洋戦争』1984年)261頁から引用する。
日記は、1937年12月13日のものだ。中島は 師団長であるから、当然、
師団司令部で指揮を執っているわけで、この13日は南京陥落の日であり、
南京のすぐ外側に 司令部があったと思われる。
「一、本日正午、高山剣士来着す」
「時あたかも捕虜七名あり」 「直ちに試し斬りを為さしむ」。
まず 司令部に連れて来た捕虜 7名を試し斬りさせたと言う。
その「剣士」の腕前を確かめるだけのために 捕虜を斬らせたのだ。
「到るところに捕虜を見、到底その始末に堪えざる程なり」。
投降した中国兵が大勢すぎて 始末に負えない、ということだ。
「大体、捕虜はせぬ方針なれば」
「片端より之を片付くることとなしたれども、中々実行は敏速には出来ず」
国際法上、戦時において捕虜を確保した方が それを保護する義務がある。
しかし、捕虜にはしない方針、と言うのだから 義務など一切ないわけだ。
捕虜にせず、片っ端から片付けることにした、ということだ。
「一、佐々木部隊」──これは 16師団に属している大隊だ。
「佐々木部隊だけにて処理せしもの約一万五千、太平門に於ける守備の
一中隊長が処理せしもの約一三〇〇、その仙鶴門付近に集結したるもの
約七、八千人あり。尚続々投降し来る」 一個大隊は 約800人だが、
その人数で 1万5千人の捕虜を 「処理した」と言っている。
また 一中隊は200人ぐらいだと思われるが、それで1300人ほどを
「処理した」、と言っているのだ。
さらに、どんどん捕虜が増えてきて、
「この七、八千人これを片付くるには、相当大なる壕を要し」
壕というのは、つまり 穴のことだが、
「中々見当らず。一案としては百、二百に分割したる後、適当の箇所に
誘(いざな)いて処理する予定なり」。
16師団は 内陸の方面から攻めていたため、辺りには「河」がない。
そうすると「処理する」というのは、穴に埋めてしまう ということだ。
7〜8千人の人間を埋める穴はないから、分割して埋めるというわけだ。
こういう遺体は、のちに掘り出されたものが発見されている。
ここでは 計画的に、最初から捕虜にしないで殺害して埋めてしまおう
ということを、師団長自身が言っているのだから、まさに捕虜虐殺は
偶発的ではなく、日本軍の方針であった ということが理解できる。
これは メッセージ 25997 (wadatumi_voice21 さん)への返信です.