インドネシア慰安婦の証言
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2008/04/17 15:39 投稿番号: [22883 / 41162]
(google参照)
元日本軍「慰安婦」スハナさん(インドネシア出身)の証言
「 一九四三年、私は一六歳でした。私が家の道端にいた時、突然「ダイニッポン」(日本軍)のジープがやってきました。ジープには軍人が六人ぐらい乗っていたと思います。その男たちは私に「一緒に来るか?」と訪ねました。
私は「いやだ」と答えました。すると彼らは私に「ジープに乗れ」と命令しました。私が再び「いやだ」と拒否しますと、頬をぶたれました。私の両親は市場で店を出していたので、「それなら、お父さんとお母さんに行くと言わなければ」と私は言いました。しかしもちろん両親に会いに行くことを許してはもらえませんでした。
彼らは私の長かった髪を、まるで馬のたてがみを引っ張るようにして私を引きずりました。私が必死に抵抗したので、結局彼らは私を抱え上げてジープのなかへ押し込みました。
そのあと私は、もともとオランダ軍の将校用住宅だったグドゥン・ドゥラパンという建物へ連れて行かれました。日本兵は私に「働け」と命令しました。私は「いやだ、学校に行きたい。私の両親も私がここへ連れてこられたことを知らないから、絶対に働くのはいやだ」と言いました。
しかし、その建物に入れられた後、別の部屋に連れて行かれました。そこには若い女性がたくさん、三十人くらい入れられていて驚きました。私は「家に帰りたい」と泣き続けていたら軍人に殴られました。すると、女性たちの一人がそばに来て、「泣くのはやめなさい。私たちはどうせ「囚われの身」なのだから」と私に言いました。
一晩その部屋で過ごした翌日、私は中国人に別の部屋に連れて行かれました。その部屋に入れられると、まもなくして「ダイニッポン」の男がやってきて、そこで私はむりやり犯されました。抵抗しようとすると平手打ちされました。
その日本軍の男は、私に服を脱ぐように命令しました。私はいやだったので抵抗したところ、私が腰に巻いている布をむりやり剥ぎ取り、下着も剥ぎ取りました。その「イケダ」という日本の軍人に私は犯されました。私はそのとき処女でした。私は本当に死んだような気がしました。
そうやってその男に犯された後、私はまたもとのたくさん女の人がいる部屋に戻されました。部屋の中で私は泣きました。周りにいた人たちは同情してくれました。私が彼女たちの中では一番若かったからです。
「これ以上泣いているとまた殴られるよ」となぐさめてくれました。その日から毎日毎日、イケダに限らず他の日本軍の男たちに犯され続け、とても時が長く感じられました。
そして金曜日がやってきました。私は「タナカ」という医師に検査されました(性病の検査と思われる)。検査が終わると、また中国人にタナカ医師の家に連れて行かれました。そこでなんと、タナカ医師も私をレイプしたのです。そのときタナカ医師は、コンドームを使用しました。そのあと私はまたもとの部屋に帰されました。
(中略)
軍人たちの相手をさせられる部屋は、私たち一人に一部屋ではなく、一部屋に三人入れられました。それなのに軍人たちは他の人がそういうことをやっていたり、あるいは他の人に見られているということも全然おかまいなしです。
ですから、他の女性たちが同じ様な目に遭っている中にいて、私は周りをとても見ることができず、いつも目を覆っていました。そんな私を見て日本軍の男は「こんなこと恥ずかしがる必要はない」と言いました。
また、拒否すると足蹴にされたり、頬を殴られたりしました。私は拒否をしたためにずいぶん殴られました。殴られるのが恐ろしかったので、私は仕方なく犯されざるをえませんでした。いろんな軍人が次々に指名してくるので体を休める暇もなく、終わったかと思うとまた次の軍人が来るという状況でした。」
(koβ註:スハナさんは犯され続けたためか、後に病気になり、一年半後、そのまま慰安所と共に放棄される形で日本軍から解放された。が、スハナさんの父親は日本軍により殺されており、母親も夫と娘を失ったショックから病気になり亡くなっていた。)
「インドネシア侵略と独立」(戦争犠牲者を心に刻む会・編 東方出版)より
元日本軍「慰安婦」スハナさん(インドネシア出身)の証言
「 一九四三年、私は一六歳でした。私が家の道端にいた時、突然「ダイニッポン」(日本軍)のジープがやってきました。ジープには軍人が六人ぐらい乗っていたと思います。その男たちは私に「一緒に来るか?」と訪ねました。
私は「いやだ」と答えました。すると彼らは私に「ジープに乗れ」と命令しました。私が再び「いやだ」と拒否しますと、頬をぶたれました。私の両親は市場で店を出していたので、「それなら、お父さんとお母さんに行くと言わなければ」と私は言いました。しかしもちろん両親に会いに行くことを許してはもらえませんでした。
彼らは私の長かった髪を、まるで馬のたてがみを引っ張るようにして私を引きずりました。私が必死に抵抗したので、結局彼らは私を抱え上げてジープのなかへ押し込みました。
そのあと私は、もともとオランダ軍の将校用住宅だったグドゥン・ドゥラパンという建物へ連れて行かれました。日本兵は私に「働け」と命令しました。私は「いやだ、学校に行きたい。私の両親も私がここへ連れてこられたことを知らないから、絶対に働くのはいやだ」と言いました。
しかし、その建物に入れられた後、別の部屋に連れて行かれました。そこには若い女性がたくさん、三十人くらい入れられていて驚きました。私は「家に帰りたい」と泣き続けていたら軍人に殴られました。すると、女性たちの一人がそばに来て、「泣くのはやめなさい。私たちはどうせ「囚われの身」なのだから」と私に言いました。
一晩その部屋で過ごした翌日、私は中国人に別の部屋に連れて行かれました。その部屋に入れられると、まもなくして「ダイニッポン」の男がやってきて、そこで私はむりやり犯されました。抵抗しようとすると平手打ちされました。
その日本軍の男は、私に服を脱ぐように命令しました。私はいやだったので抵抗したところ、私が腰に巻いている布をむりやり剥ぎ取り、下着も剥ぎ取りました。その「イケダ」という日本の軍人に私は犯されました。私はそのとき処女でした。私は本当に死んだような気がしました。
そうやってその男に犯された後、私はまたもとのたくさん女の人がいる部屋に戻されました。部屋の中で私は泣きました。周りにいた人たちは同情してくれました。私が彼女たちの中では一番若かったからです。
「これ以上泣いているとまた殴られるよ」となぐさめてくれました。その日から毎日毎日、イケダに限らず他の日本軍の男たちに犯され続け、とても時が長く感じられました。
そして金曜日がやってきました。私は「タナカ」という医師に検査されました(性病の検査と思われる)。検査が終わると、また中国人にタナカ医師の家に連れて行かれました。そこでなんと、タナカ医師も私をレイプしたのです。そのときタナカ医師は、コンドームを使用しました。そのあと私はまたもとの部屋に帰されました。
(中略)
軍人たちの相手をさせられる部屋は、私たち一人に一部屋ではなく、一部屋に三人入れられました。それなのに軍人たちは他の人がそういうことをやっていたり、あるいは他の人に見られているということも全然おかまいなしです。
ですから、他の女性たちが同じ様な目に遭っている中にいて、私は周りをとても見ることができず、いつも目を覆っていました。そんな私を見て日本軍の男は「こんなこと恥ずかしがる必要はない」と言いました。
また、拒否すると足蹴にされたり、頬を殴られたりしました。私は拒否をしたためにずいぶん殴られました。殴られるのが恐ろしかったので、私は仕方なく犯されざるをえませんでした。いろんな軍人が次々に指名してくるので体を休める暇もなく、終わったかと思うとまた次の軍人が来るという状況でした。」
(koβ註:スハナさんは犯され続けたためか、後に病気になり、一年半後、そのまま慰安所と共に放棄される形で日本軍から解放された。が、スハナさんの父親は日本軍により殺されており、母親も夫と娘を失ったショックから病気になり亡くなっていた。)
「インドネシア侵略と独立」(戦争犠牲者を心に刻む会・編 東方出版)より
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.