Re: お笑いインチキ映画 南京の真実
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2008/04/09 19:59 投稿番号: [22813 / 41162]
>朝鮮半島人と血縁関係のある、バカ天を崇拝するとは、誠にこっけいですな〜。
オマエ認知症だろ。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/28650373.html
(一部抜粋)
「大和朝廷=もと朝鮮人」説が大嘘であることの証明
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
平成13年(2001年)12月18日、天皇誕生日前に恒例となっている記者会見において今上天皇は、翌年のサッカーワールドカップ共催に際してのコメントの一部で、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」との発言を行った。この発言は、日本ではさほど大きく取り上げられなかったものの韓国のマスコミでは大きく報道され、話題となった。そのうち一部では、「天皇家は韓国人の血筋を引いている」、「皇室百済起源論」などの論理を大きく飛躍させる報道があった。
●証明
古代の朝鮮半島は倭国の支配地(勢力圏)だった。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/6597214.html
(一部抜粋)
391年、倭が、海を越えて襲来し、百済や新羅を破って服属させてしまった(広開土王碑)
7世紀まで朝鮮は九州などと同様に倭国の一部だった。
『日本書紀』雄略紀
百済の文斤王がなくなり、天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、幼くとも聡明なので、内裏へ呼んだ。親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵五百人を遣わして国に送り届けた。これが東城王である。…
(廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王、以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、并遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。…)
こうして479年、東城王(末多王)が百済王に即位したが、この即位も倭国(天皇)によって決められたことが判る。
『日本書紀』武烈四年条(502年)には、この東城王(末多王)の暴虐が記され、武寧王即位が記されている。
「是歳、百済の末多王、無道して、百姓に暴虐す。国人、遂に除てて、嶋王を立つ。是を武寧王とす。」
こうして、百済王に「武寧王」が即位したのだが、「武寧王」も九州(佐賀県)生れの倭人だった。
このとき百済王に即位した九州生れの「武寧王」の約2百年後の子孫が和乙継(やまとのおとつぐ)で、その娘が高野新笠で、その子供が桓武天皇(在位781〜806年)となったのだ。
663年、倭国は、「白村江の戦い」で、唐・新羅の連合軍に敗れ、朝鮮半島に有していた勢力圏を失ってしまった。
百済王族は日本列島に亡命し、それ以降は大和朝廷の単純な手下となった。
桓武天皇の在位期間(781〜806年)、桓武天皇の命令を受けた百済王の子孫たちは、東北地方の征服を何度も試みたが、大惨敗を繰り返した。
つまり、百済というのは昔から倭国の一地方であり、百済王は天皇によって決められ、日本(九州など)生れの東城王(末多王)や武寧王などが即位していた。
日本に戻って来た武寧王の子孫は、全員6〜7世紀に来ていた。
武寧王の約2百年後の子孫の一人が和乙継で、その娘の高野新笠が桓武天皇の生母だったということ。
オマエ認知症だろ。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/28650373.html
(一部抜粋)
「大和朝廷=もと朝鮮人」説が大嘘であることの証明
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
平成13年(2001年)12月18日、天皇誕生日前に恒例となっている記者会見において今上天皇は、翌年のサッカーワールドカップ共催に際してのコメントの一部で、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」との発言を行った。この発言は、日本ではさほど大きく取り上げられなかったものの韓国のマスコミでは大きく報道され、話題となった。そのうち一部では、「天皇家は韓国人の血筋を引いている」、「皇室百済起源論」などの論理を大きく飛躍させる報道があった。
●証明
古代の朝鮮半島は倭国の支配地(勢力圏)だった。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/6597214.html
(一部抜粋)
391年、倭が、海を越えて襲来し、百済や新羅を破って服属させてしまった(広開土王碑)
7世紀まで朝鮮は九州などと同様に倭国の一部だった。
『日本書紀』雄略紀
百済の文斤王がなくなり、天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、幼くとも聡明なので、内裏へ呼んだ。親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵五百人を遣わして国に送り届けた。これが東城王である。…
(廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王、以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、并遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。…)
こうして479年、東城王(末多王)が百済王に即位したが、この即位も倭国(天皇)によって決められたことが判る。
『日本書紀』武烈四年条(502年)には、この東城王(末多王)の暴虐が記され、武寧王即位が記されている。
「是歳、百済の末多王、無道して、百姓に暴虐す。国人、遂に除てて、嶋王を立つ。是を武寧王とす。」
こうして、百済王に「武寧王」が即位したのだが、「武寧王」も九州(佐賀県)生れの倭人だった。
このとき百済王に即位した九州生れの「武寧王」の約2百年後の子孫が和乙継(やまとのおとつぐ)で、その娘が高野新笠で、その子供が桓武天皇(在位781〜806年)となったのだ。
663年、倭国は、「白村江の戦い」で、唐・新羅の連合軍に敗れ、朝鮮半島に有していた勢力圏を失ってしまった。
百済王族は日本列島に亡命し、それ以降は大和朝廷の単純な手下となった。
桓武天皇の在位期間(781〜806年)、桓武天皇の命令を受けた百済王の子孫たちは、東北地方の征服を何度も試みたが、大惨敗を繰り返した。
つまり、百済というのは昔から倭国の一地方であり、百済王は天皇によって決められ、日本(九州など)生れの東城王(末多王)や武寧王などが即位していた。
日本に戻って来た武寧王の子孫は、全員6〜7世紀に来ていた。
武寧王の約2百年後の子孫の一人が和乙継で、その娘の高野新笠が桓武天皇の生母だったということ。
これは メッセージ 22782 (fukagawatohei さん)への返信です.