支那人の妄想
投稿者: yuki6000jp 投稿日時: 2004/04/04 02:43 投稿番号: [2259 / 41162]
第1級資料として、
1.『伝統ある英字年鑑「チャイナ・イヤーブック」一九三八年版は、・・「十二月十三日、日本軍南京占領」と記す。それだけであった。』
2,『毛沢東の有名な「持久戦について」(筆者注:講演 南京陥落後半年後)は、・・①南京の日本軍は支那兵を殲滅しなかった。②そのため、支那軍は助かった。③逃げ延びた支那軍は再び勢力を再結集して、日本軍に反撃することが出来た。・・。⑤だから日本軍の戦略はまずかった。』
3,『蒋介石は、一九三八年七月七日、漢口で、「友好国への声明」と「日本国民への声明」を発表する。・・読んでみると、・・南京虐殺ではなく、広東残虐事件(?)なるものであった。』
9)チベットと南京大虐殺
「赤い中国に祖国チベットは破壊された」。チベット仏教カギュー派の最高位活仏カルマパ17世(14歳)は、側近と家族を残し遠くヒマラヤ越えをして命がけでインドへ亡命した。この彼の命がけの言葉は、「チベット自由と人権の集い(チベット強制収容所の惨劇が今明らかに!)」(東京:平成11年12月11日、大阪:平成11年12月12日)日本で開催された集会の中の、拷問・虐殺の証言内容を裏付けるものではないだろうか。
アメリカに続いて、「欧州議会が人権弾圧非難決議採択」(産経新聞朝刊平成12年2月2日付)を行った。チベットでの人権弾圧もしくは拷問・虐殺(「チベット女性戦士が語る中国獄中生活の28年間」『正論』2000年3月号)について共通の認識を持ち始めたようだ。
しかし小林氏の指摘どおり、日本のマスコミを見ていると全くその認識を持てない。と言うより、チベットの平和な写真を掲げ何事もない印象を伝える新聞があったり、NHK衛星放送で中国の肝いりらしい穏やかで美しいチベットの様子を放送しているのを見ていると、どうしても世界の認識とずれが生じてしまう。なぜだろうか。「かつて日本のマスコミはモスクワ派が多かったが、その後、北京派が多くなり、現在も北京派は強い。そのせいか、コンセンサスとは北京に聞くことだと思いこんでいるようだ」(『台湾の主張』李登輝著)。だから真実が伝わらないのだろうか? カモフラージュのための南京大虐殺なのか?日本に好意的な外国の人たちに無視を決め込む。それはあきらかに中国の人権侵害を容認すると言うことになる。日本のマスコミと北京政府。いったいどうつながっているのか。
日本を訪問したダライ・ラマ14世や、これから訪問するであろう李登輝前総統に対して、日本の外務省の対応に注目したい。
10)いつから教科書に記述されるようになったのか
上杉千年氏によれば、「南京事件」の初見は終戦後に使用された『時事問題』という教科書に認められたが、まもなく姿を消していったという。昭和30年代に入ると、戦前の日本の姿を暗黒に捉える歴史記述が社会科歴史の教科書に現れるようになり、その結果、昭和33年、43年と教科書の偏向の大本をただす意味での学習指導要領改訂が行われ、少しずつ改善の方向に向かっていた。しかし「南京事件」の名称は、昭和40年頃から再び教科書に登場するようになってきたらしい。そして、昭和52年の学習指導要領で、これまでの改訂努力を一挙に崩すような改悪改訂が行われ、これを機に教科書も再び偏向の度を強めることになった。その後教科書「侵略」「進出」をめぐる大誤報事件(昭和57年6月26日)が起きて、宮沢喜一官房長官が「政府の責任において、近隣諸国の批判を受けた教科書の記述を是正する。今後の教科書検定では、検定基準を改め、近隣諸国との友好、親善が充分実現するように配慮する」という談話を発表し、検定基準にいわゆる近隣諸国条項ができてから、文部省の姿勢が180度転向してしまいました。文部省は、「南京事件」については、原則として、同事件が混乱の中で発生した旨の記述を求める検定意見を付さない」(昭和57年12月6日)という新方針を策定して以来、南京事件については書き放題という状況になった。それ以前の記述は「ナンキン虐殺事件」(東京書籍 中学 昭和56年度版)であったが、「ナンキン大虐殺」(昭和59年度より)の記述になり「中国では、この殺害による犠牲者を、戦死者も含め、30万以上とみている」と書くまでに至った。
1.『伝統ある英字年鑑「チャイナ・イヤーブック」一九三八年版は、・・「十二月十三日、日本軍南京占領」と記す。それだけであった。』
2,『毛沢東の有名な「持久戦について」(筆者注:講演 南京陥落後半年後)は、・・①南京の日本軍は支那兵を殲滅しなかった。②そのため、支那軍は助かった。③逃げ延びた支那軍は再び勢力を再結集して、日本軍に反撃することが出来た。・・。⑤だから日本軍の戦略はまずかった。』
3,『蒋介石は、一九三八年七月七日、漢口で、「友好国への声明」と「日本国民への声明」を発表する。・・読んでみると、・・南京虐殺ではなく、広東残虐事件(?)なるものであった。』
9)チベットと南京大虐殺
「赤い中国に祖国チベットは破壊された」。チベット仏教カギュー派の最高位活仏カルマパ17世(14歳)は、側近と家族を残し遠くヒマラヤ越えをして命がけでインドへ亡命した。この彼の命がけの言葉は、「チベット自由と人権の集い(チベット強制収容所の惨劇が今明らかに!)」(東京:平成11年12月11日、大阪:平成11年12月12日)日本で開催された集会の中の、拷問・虐殺の証言内容を裏付けるものではないだろうか。
アメリカに続いて、「欧州議会が人権弾圧非難決議採択」(産経新聞朝刊平成12年2月2日付)を行った。チベットでの人権弾圧もしくは拷問・虐殺(「チベット女性戦士が語る中国獄中生活の28年間」『正論』2000年3月号)について共通の認識を持ち始めたようだ。
しかし小林氏の指摘どおり、日本のマスコミを見ていると全くその認識を持てない。と言うより、チベットの平和な写真を掲げ何事もない印象を伝える新聞があったり、NHK衛星放送で中国の肝いりらしい穏やかで美しいチベットの様子を放送しているのを見ていると、どうしても世界の認識とずれが生じてしまう。なぜだろうか。「かつて日本のマスコミはモスクワ派が多かったが、その後、北京派が多くなり、現在も北京派は強い。そのせいか、コンセンサスとは北京に聞くことだと思いこんでいるようだ」(『台湾の主張』李登輝著)。だから真実が伝わらないのだろうか? カモフラージュのための南京大虐殺なのか?日本に好意的な外国の人たちに無視を決め込む。それはあきらかに中国の人権侵害を容認すると言うことになる。日本のマスコミと北京政府。いったいどうつながっているのか。
日本を訪問したダライ・ラマ14世や、これから訪問するであろう李登輝前総統に対して、日本の外務省の対応に注目したい。
10)いつから教科書に記述されるようになったのか
上杉千年氏によれば、「南京事件」の初見は終戦後に使用された『時事問題』という教科書に認められたが、まもなく姿を消していったという。昭和30年代に入ると、戦前の日本の姿を暗黒に捉える歴史記述が社会科歴史の教科書に現れるようになり、その結果、昭和33年、43年と教科書の偏向の大本をただす意味での学習指導要領改訂が行われ、少しずつ改善の方向に向かっていた。しかし「南京事件」の名称は、昭和40年頃から再び教科書に登場するようになってきたらしい。そして、昭和52年の学習指導要領で、これまでの改訂努力を一挙に崩すような改悪改訂が行われ、これを機に教科書も再び偏向の度を強めることになった。その後教科書「侵略」「進出」をめぐる大誤報事件(昭和57年6月26日)が起きて、宮沢喜一官房長官が「政府の責任において、近隣諸国の批判を受けた教科書の記述を是正する。今後の教科書検定では、検定基準を改め、近隣諸国との友好、親善が充分実現するように配慮する」という談話を発表し、検定基準にいわゆる近隣諸国条項ができてから、文部省の姿勢が180度転向してしまいました。文部省は、「南京事件」については、原則として、同事件が混乱の中で発生した旨の記述を求める検定意見を付さない」(昭和57年12月6日)という新方針を策定して以来、南京事件については書き放題という状況になった。それ以前の記述は「ナンキン虐殺事件」(東京書籍 中学 昭和56年度版)であったが、「ナンキン大虐殺」(昭和59年度より)の記述になり「中国では、この殺害による犠牲者を、戦死者も含め、30万以上とみている」と書くまでに至った。
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.