太平天国の乱に見るシナ人の残虐性
投稿者: tututontutu_tutonton 投稿日時: 2008/02/18 05:51 投稿番号: [22399 / 41162]
1851年
「客家(はっか)」出身の洪仁坤が啓示を受け世直し運動を開始しはじめた。
滅満興漢・土地均田・男女平等・アヘン反対のスローガンで飢饉と圧政で苦しむ民衆数百万を吸収、大集団を形成した。
そしてたちまち華南一帯を制圧、華北にも勢力を伸ばす。
1853年に南京を首都とした。
が・・・・・。
このころになると幹部は宮殿の建設や愛娼おぼれ、革命の精神はたちまち消失。まあシナ人のおきまりのパターンですね。(大笑)
まあ日本にも「成金」とかいましたけど。
結局1864年清英仏の連合軍に鎮圧される。
この乱が沈静化に向かい始めた1861年に432000000人いたシナ人は2億6688万人に激減してしまっていた。
それまでの王朝交代時での人口減少が2000万〜3000万だったこととの差はれきぜんです。
江戸時代の日本人口が3000万くらい、それまでも異常ではあったがこの乱は特にシナ人らしさが出たわけです。(笑)
特に首都南京の陥落時には数百万人が殺されて各地に遺体が埋められ、長江に投げ捨てられた。
これは メッセージ 22384 (tututontutu_tutonton さん)への返信です.
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