では 歴史全体を見るべきでは?1
投稿者: akihuyu_49 投稿日時: 2002/07/30 17:30 投稿番号: [199 / 41162]
アロー戦争
イギリスは、アヘン戦争後の南京条約による五港の開港・公行の廃止によって、対中国貿易が飛躍的に増大することを期待したが、戦後もイギリス製品の輸出は増えず期待したほどの利益はあがらなかった。
イギリスは、貿易不振の原因が、開港場が南に片寄っていて都の北京の近くにないこと、また広州では領事の駐在や居留地をおくことが延期されるなど中国側に条約違反や不履行が多いことにあると考え、条約の改定や市場の一層の拡大を求めたが清朝は応じなかった。そのためイギリスは清朝に再び打撃を与えてより有利な条約を結ぶ機会をねらっていた。
その時たまたまアロー号事件が起こった。1856年10月、イギリス船籍に属し、船長がイギリス人で中国人が所有する小帆船アロー号が、広州港外に停泊中に海賊容疑で清朝官憲の臨検を受け、中国人乗組員12人が逮捕されるという事件が起きた。これがアロー号事件である。
イギリスは、清朝官憲がイギリス船籍のアロー号に対してイギリス船長不在中に臨検を行い、イギリスに無断で乗組員を逮捕し、しかもその際イギリス国旗が引き下ろされて侮辱されたとして乗組員の釈放と謝罪・賠償を要求した。
これに対して清朝は、アロー号は中国人所有の船で船長を除いて乗組員全員が中国人であること、アロー号は事実上中国の海賊船であること、またイギリス国旗は掲げられてなかったとしてイギリスの要求を拒絶した。
イギリスは、このアロー号事件を絶好の機会ととらえ、広西省で宣教師が殺害され清に抗議していたフランスのナポレオン3世をさそって共同で出兵し、アロー戦争(1856〜60)を引き起こした。アロー戦争は第2次アヘン戦争とも呼ばれている。
イギリス軍は1856年10月に広州を攻撃した。しかし、広州の住民の抵抗にあって虎門に退き本国からの援助を待った。イギリスはシパーヒー(セポイ)の反乱のために派兵が遅れ、英仏連合軍が広州の攻撃を開始したのはようやく1857年12月になってからであった。
英仏連合軍は広州を占領して略奪・暴行の限りを尽くした。翌1858年英仏連合艦隊は北上し、4月には天津に迫った。
対外的にはアロー戦争(1856〜60)、国内では太平天国の乱(1851〜64)という内憂外患に苦しんでいた清朝はやむを得ず1858年6月に英仏両国と天津条約を結んだ。
天津条約の主な内容は、外国公使の北京駐在・キリスト教の布教の自由・漢口など10港の開港・外国人の中国内地での旅行の自由・英仏への計600万両の賠償金の支払いなどを清が認めるというものであり、天津条約は1年後に批准されることになっていた。
1859年6月、批准書交換のために英仏連合艦隊16隻が天津沖に姿を現した。英仏艦隊は白河をさかのぼって天津へ進もうとしたが、白河の河口には障礙物が施されていた。障礙物の除去作業を行っているイギリス艦隊が清軍の砲台から攻撃を受け、イギリス艦隊は惨敗して上海へ退いた。
これに憤慨した英仏両国は、大艦隊とともにイギリス軍1万600・フランス軍6300の大軍を派遣し、英仏連合軍は1860年8月に大沽を陥れ、天津を占領した。
驚いた清朝は大臣を天津に派遣して交渉を始めたが、交渉が決裂すると咸豊帝(位1850〜60)は熱河へ逃れ、英仏連合軍は10月に北京を占領し、円明園の略奪・破壊を行った。
イギリスは、アヘン戦争後の南京条約による五港の開港・公行の廃止によって、対中国貿易が飛躍的に増大することを期待したが、戦後もイギリス製品の輸出は増えず期待したほどの利益はあがらなかった。
イギリスは、貿易不振の原因が、開港場が南に片寄っていて都の北京の近くにないこと、また広州では領事の駐在や居留地をおくことが延期されるなど中国側に条約違反や不履行が多いことにあると考え、条約の改定や市場の一層の拡大を求めたが清朝は応じなかった。そのためイギリスは清朝に再び打撃を与えてより有利な条約を結ぶ機会をねらっていた。
その時たまたまアロー号事件が起こった。1856年10月、イギリス船籍に属し、船長がイギリス人で中国人が所有する小帆船アロー号が、広州港外に停泊中に海賊容疑で清朝官憲の臨検を受け、中国人乗組員12人が逮捕されるという事件が起きた。これがアロー号事件である。
イギリスは、清朝官憲がイギリス船籍のアロー号に対してイギリス船長不在中に臨検を行い、イギリスに無断で乗組員を逮捕し、しかもその際イギリス国旗が引き下ろされて侮辱されたとして乗組員の釈放と謝罪・賠償を要求した。
これに対して清朝は、アロー号は中国人所有の船で船長を除いて乗組員全員が中国人であること、アロー号は事実上中国の海賊船であること、またイギリス国旗は掲げられてなかったとしてイギリスの要求を拒絶した。
イギリスは、このアロー号事件を絶好の機会ととらえ、広西省で宣教師が殺害され清に抗議していたフランスのナポレオン3世をさそって共同で出兵し、アロー戦争(1856〜60)を引き起こした。アロー戦争は第2次アヘン戦争とも呼ばれている。
イギリス軍は1856年10月に広州を攻撃した。しかし、広州の住民の抵抗にあって虎門に退き本国からの援助を待った。イギリスはシパーヒー(セポイ)の反乱のために派兵が遅れ、英仏連合軍が広州の攻撃を開始したのはようやく1857年12月になってからであった。
英仏連合軍は広州を占領して略奪・暴行の限りを尽くした。翌1858年英仏連合艦隊は北上し、4月には天津に迫った。
対外的にはアロー戦争(1856〜60)、国内では太平天国の乱(1851〜64)という内憂外患に苦しんでいた清朝はやむを得ず1858年6月に英仏両国と天津条約を結んだ。
天津条約の主な内容は、外国公使の北京駐在・キリスト教の布教の自由・漢口など10港の開港・外国人の中国内地での旅行の自由・英仏への計600万両の賠償金の支払いなどを清が認めるというものであり、天津条約は1年後に批准されることになっていた。
1859年6月、批准書交換のために英仏連合艦隊16隻が天津沖に姿を現した。英仏艦隊は白河をさかのぼって天津へ進もうとしたが、白河の河口には障礙物が施されていた。障礙物の除去作業を行っているイギリス艦隊が清軍の砲台から攻撃を受け、イギリス艦隊は惨敗して上海へ退いた。
これに憤慨した英仏両国は、大艦隊とともにイギリス軍1万600・フランス軍6300の大軍を派遣し、英仏連合軍は1860年8月に大沽を陥れ、天津を占領した。
驚いた清朝は大臣を天津に派遣して交渉を始めたが、交渉が決裂すると咸豊帝(位1850〜60)は熱河へ逃れ、英仏連合軍は10月に北京を占領し、円明園の略奪・破壊を行った。
これは メッセージ 198 (the_super_aikokusya さん)への返信です.